大正末期から昭和の北山田から 第2回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全冨雄(『望郷』から引用)
北山田の今昔(上)
日吉元石川線は、元は田圃で、その真ん中にきれいな小川が流れており、道路を中心に八十二戸の農家がお米や野菜を作っておりました。今のすみれが丘も北山田でしたが、約二十五年前に新しい町になりました。
小川は元のすみれが丘の山から流れてきて、顔も洗い、飲めるきれいな清水で、川には、鰻、カタッケ、毛蟹などが捕れました。
洗濯や野菜の洗い場としても使われ、災害の時には貴重な防火用水であり、子供のよい遊び場でもありました。七月頃になりますと、邪魔になるくらいの蛍が田圃から湧いてくるかと思うほど飛び交っておりました。子供の頃、蛍を捕まえて蚊帳の中に放し、楽しんだものでした。
緑の中に住んでいたので空気はよく、月夜の晩は本が読めるくらいでした。家庭の電灯は今の二燭(にしょく)くらいの明るさなので、月夜の方が明るく思えたのかもしれません。
小学校までは三キロや四キロは当たり前、山坂を二つも三つも越えて通学しましたが、舗装された道は当然のことながらありません。砂利道はよい方で、霜解けの農道を滑りながらの通学です。
その頃学校では以外と衛生は厳しく、手拭いを忘れると家まで取りに行かされました。山道を一人で泣きながら家まで取りに行き、学校に戻りますと一時間目の勉強は終わっておりました。
宿題を忘れると、廊下に立たされます。高学年になりますと、水を入れたバケツを持たされ、廊下に立たされるくらい罰が重かった。物資がない時代でしたので、筆記用具は先生と親に帳面をみせて無駄なく使ったか、確認をしてもらい、新しい帳面を買う許可が出ました。鉛筆は短くなったら竹の穴に差し込んで使い、これも先生、親に見せてから買った。お習字はほとんど半紙は使わず、新聞紙を四つ切りに切って練習し、最後に一枚先生から半紙をいただいて書いた。
新聞も各家庭ではなかなか購読できない時代でしたので、字がわからなくなるくらい使うほど、紙は貴重品でした。
お弁当は、麦飯に梅干の日の丸弁当でした。弁当箱の蓋に梅干の跡が酸で穴があいてしまいました。弁当箱を持ってくればよい方で、さつま芋を新聞紙に包んで持ってくる子も多かった。
農繁期には、学校に子供を背負い、子守をしながら勉強する人もいた。朝、学校に行く前に、必ず庭の掃除、縁側の雑巾拭きがあり、冬は辛かった。急がないと学校に遅れるので、夢中でした。
宿題は多かった。家に帰れば、五、六年生になると家の手伝いが必ず待っています。野良へのお三時運び、水道がなかったので風呂やお勝手の水汲み、風呂焚き、子守、野菜洗い、農作業の手伝いと、宿題をする間がない。
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