大正末期から昭和の北山田から 第8回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全冨雄(『望郷』から引用)
公民館
北山田公民館の前身は、山田富士(長泉寺の寺領)の裾野にあった長泉寺の草葺きの太子堂というお堂です。
このお堂が部落の若い衆の集まり場所で青年倶楽部になり、いつしか倶楽部として部落の中心になり、いつの年代からか富士山全山の町会で寺から借用管理して、毎年年貢米として青年会が各戸よりお米を集め、俵にして寺に納めておりました。
桜の手入れ、草刈り、清掃と部落の人の山田富士への愛着は深く、戦地からの軍事便も「桜が咲いたか」と記されておりました。
南からの登山道を御殿場口、西からの道を吉田口と言われ、途中には胎内堂(陥没)があり、白山様、伊豆権現、箱根権現、その他の碑が多数あり、裏側には賽の河原に子育地蔵があって、倶楽部とともに愛されておりました。
倶楽部も、何回か木を伐採して製材所に持っていき、建築用材をとって補修を繰り返しましたが、昭和三十二年、会員の寄付金で建て替え、北山田公民館と呼ばれるようになりました。
戦後、桜の苗木を青年会で注文、小机駅の苗木会社に取りに行き、全員で植えました。
また牛久保の田丸さんから八重桜の苗木を数本寄付され、植えられました。
現在残って咲いているのがそうです。
造成により、かなり裾野が削られました。
その中に斜めに広場に迫(せ)り出した大きな松の木がありました。言い伝えによると、昔、太子堂に寄られたお坊さんが亡くなり、松の木の下に葬ったということでしたが、昔のことですので、噂として聞き流しておりました。
山田富士組がバックホーで工事中、噂の場所から頭蓋骨が出てびっくりしました。急ぎ公団を呼び、住職にご足労願い、懇ろに弔いました。
このことで太子堂の存在が実証されました。
移転に伴い公民館に祀られていた太子様は、長泉寺に鎮座されています。
|
|
|
|
|
|