大正末期〜昭和の北山田から 第17回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全冨雄(『望郷』から引用)
陸上競技【1】
青年団でよく陸上競技の長距離に出場した。
戦前は長距離競技も団体競技が多かった。
青年学校の競技は壮絶だった。五人一組になり、牛蒡剣(ごぼうけん)、三八式歩兵銃に背嚢(はいのう)を背負い、薬莢(やっきょう)をつけ完全装備で十キロを完走せねばならない。一人の落後も許せない競技であった。本科生が何時も出場したが、途中仲間が倒れ、残った四人で倒れた仲間の装備を分担して背負い、とにかく五人揃ってゴールしなければならないというものだった。
学校の名誉にかけて倒れた仲間を励まし、引きずりながら到着したら、足の爪が全部すり減ってなくなっていた。ただちに入院したが、血染めの優勝であった。
戦後、港北陸連が活発になり、中山中学で競技が行われていた。
私は一万、五千、千五百メートルにたびたび出場した。
中距離選手で、今の島村尚美県会議員とは懇意にしていた。駅伝、中距離ではいつもご一緒したが、かたや父が県会議員であり、大学生で真っ白いスポーツ運動着、こちらは戦後なのでよれよれのシャツに地下足袋姿、なんとも不似合いな運動会であった。
勝負は負けなかったが、人生双六(すごろく)は負けた。
かたや県会議長、こちらは六十年たってニュータウンにより財産が半減している。
物質面ではめぐまれていないが、家族の理解がなによりの幸せである。日々の生活を忙しく送ることは、二重の幸せと思う。
駅伝は盛んであった。横浜駅伝、港北駅伝にいつも参加させていただいた。
特に横浜駅伝は各区役所を中継所にして争われた。私はいつも港北区役所から鶴見区役所までが区間であったが、港北はいつも最下位に甘んじていた。
港北区役所でバトンタッチする時、後ろはもちろん誰もおりません。前もかすかに見えるくらいです。途中で肥汲みの牛車に会うと「もう先の選手は〇〇くらい前だよ、頑張れ」、と教えてくれた。
港北駅伝は綱島から菊名、小机、中山、中里、市が尾、山内、江田、中川がコースであり、私は江田から綱島までの区間だった。仲間が自転車で伴走してくれ、励ましてくれたお陰で中川は上位にいつもいた。
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