都筑区版 掲載号:2019年3月21日号
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大正末期〜昭和の北山田から 第25回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全冨雄(『望郷』から引用)

中川の竹の子
中川の竹の子

昭和初期

 昭和初期、世の中が激動の中に入りつつあった。軍人が台頭してきた時代であり、警察も兵隊さんには手が出せなかった。バスも電車も軍人は無鑑札、子供には憧れの職業であった。

 物心ついた頃、よくおじいさんに山田館に連れていってもらった。山田館は東山田ののちめ通りにあり、広さは小さい体育館くらいで、両脇に二階の桟敷席、その下に駄菓子屋が店を出していた。

 その当時の中川ではただ一つの劇場で、大勢集まれる建物は山田館だけであった。

 有名な浪曲師、漫才、講談、手品師、映画、芝居などを盛んに上演したが、興業間近になると、今のバス通りの砂利道に宣伝の大きな立幟(たてのぼり)が、ちょうど、相撲の場所に飾られる幟と同じように立ち並んだ。老若男女とわず、娯楽が何も無かった時代だったので、ただ一つの社交場であった。

 私は芝居を見るよりも駄菓子屋から届けられるお菓子が目当てだったので、食べれば帰りたくなり祖父を困らせた。

 山田館の前にタクシー会社があって、祖父と一緒に行けばいつも往復乗れた。当時とすれば何より車に乗れるのが楽しみであった。若い人たちも、けっこう恋が結ばれたと聞く。

 その山田館も、経営のまずさから閉館になり、建物は溝の口の軍需工場に移築され、終戦後解体された。タクシーの車庫も身売りに出され、この車庫は重代谷戸の共同出荷小屋として譲り受けた。

 元の私宅の下に移動設置されたが、東山田から運ぶのに建物をそのまま牛車に積み、人間が引いたり押したりして、狭い道を谷戸中総出で運んできた。

 自動車が珍しいのどかな時代だから運べたが、今ではとても考えられません。

 移築後は部落中が総出で壁を塗り、屋根を葺き、完成させた。今では考えられませんが、皆奉仕でした。今は時間で賃金が換算され、物資は豊かだが、親睦人情は貧困になった。

 北山田は竹の子の産地であった。共同小屋に朝、集荷され、トラック(今の二トン車)が運搬にきた。なにせ、道が狭く悪いので大変だった。

 朝まだ暗いうちに竹藪に入り、夜明けを待って掘り始めないと集荷に間に合わない。”朝掘りの竹の子”というので、市場では評判がよく、少しでも値売りするため、竹の子に限らず、農家は夜星をあおぎ、朝露を踏み働いた。
 

当時の山田館
当時の山田館

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