大正末期〜昭和の北山田から 第35回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全(おまた)冨雄(『望郷』から引用)
助教訓練【3】
軍事訓練は厳しくなるばかりであった。今の中学の丘から早渕川までの田圃道を、銃を両手で支え、川まで匍匐(ほふく)(腹這い)前進、時折、教練指導員に腰が高いと木銃で尻をたたかれ、堤防まで着いた時は、服は泥だらけ、ボタンははずれているし、さんざんだった。
夜間訓練の時、星もない真っ暗な夜、歩哨の前をクラス全員音がでないよう牛蒡剣には布を巻き、歩哨の二メートル手前を匍匐して通ったら、半分通過するまでわからなかった。歩哨の責任重大性が感じられた。
よく山田の富士山が演習場として使われ、周りの丘から攻撃を開始、田圃を這い、カーバイトの模擬機関銃の援護で山頂に突撃、占拠のくりかえしが行われた。三、四年生がおもだった。
査問は厳しかった。年一回、港北区の青年学校が一同に会して関東軍司令部の軍事訓練の査問をうけなければならない。今の港北土木事務所付近の河川敷でよく行われた。
各学校とも名誉にかけて日頃の訓練の成果を披露するので、緊張の連続であった。
ちょうど、査問中、戦闘機が一機現れ、山裾の農家に急降下を始めた。近くの生徒に聞くと、少年航空兵の家と聞きました。再三翼を振って南の空に消えた。
おそらく最後の別れだったろう、悲しい思い出だった。
暁天動員
本土決戦に備え、残り少ない在郷軍人を中心に、毎月一日、十五日、竹槍を持って小学校に朝五時に集合、刺殺訓練が行われた。竹槍は穂先を鋭利にとがらし、油を塗り焼いて作った。
今思うと、幼稚なことをしていたと思うが、その当時は真剣だった。
軍隊も武器がなく六二部隊でも銃剣も中身だけで鞘がなく、竹で鞘を作っていた兵隊を見かけた。
暁天動員も、みな戦地に行っているので青年学校生徒が多く、健康上徴兵もれの人が主体で行われた。
|
<PR>
|
|
|
|
|
|