大正末期〜昭和の北山田から 第44回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全(おまた)冨雄(『望郷』から引用)
物資の不足【2】
衣類、砂糖、塩、米、その他生活用品全部配給制度であり、配給があれば量が少なくてもよいが、配給もなくなってしまうことが多かった。
農薬、肥料はなんにもなく、その頃は無公害野菜だが、作る人が戦地に行き、残った年寄り女子供だけでは生産が間に合わぬ。
小学校高学年が、農村では一番の働き手であった。徹底的な物資の尊さを我が身で知り得た経験は、一生離れないであろう。
また、いかなる窮乏の生活にも耐える自信がある。豊かな時代に育った者は可哀想だ。必ず窮乏の時代が目に見えている。
自転車のタイヤがなく、つぎはぎだらけのチューブはすぐパンクするが、自転車は貴重品だった。リヤカーのスポークは木で、タイヤはモクタイヤといって空気が入らぬタイヤなので重かった。ゴムが徹底して不足していた。そのかわりパンクはしなかったが、スポークが木なので乾燥しすぎてつぶれてしまったこともある。終戦後しばらく木のリュームは続いた。
衣服は本家がわからぬほど継ぎ剥ぎであり、同じ色の継ぎ布がなく、黄色の着衣に青の布で補修ということもあった。ちょうど今、六本木や新宿に、終戦当時の貧しかった服装が若者の間に再現されているように見える。
砂糖は貴重品で、甘味料は薩摩芋にたよっていた。薩摩芋ようかん、チキンシボリ、薩摩芋のお汁粉、当時はそれでも甘かった。もちろん糖尿病などなかった。麦御飯の中に薩摩芋を千切りにして炊き込んだり、栗御飯に大根の葉と薩摩芋をいれたり、これはおいしかった。一粒も残さず食べ、茶碗にお湯をいれ、栄養がもったいないとすすいで飲まないと怒られた。 (つづく)
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