大正末期〜昭和の北山田から 第49回 都筑区の歴史を紐解く 文・絵 男全(おまた)冨雄(『望郷』から引用)
戦後
復員してきた村の青年十五名で、何とか日本を復興させるには農業を確立せねばならぬと、富士会という会を作り活動を始めた。
当然のことながら化学肥料とてなく、堆肥作りのため養豚を始めたいのだが、子豚が手に入らない。そこで精米した米糠を共同で溜めて、馬車に積み込み、子豚と交換に相模原まで行き交渉した。貴重なため、数頭しか分けてもらえなかった。
今では三十分の距離だが、馬車と自転車で一日かかりの子豚探しの旅であった。豚は繁殖が早いので、たちまち増え、各戸で必ず飼育するまでになっていた。貴重な肥料源と収入源であった。
栄養補給の意味で山羊も盛んに飼われ、羊も多く飼われた。羊毛は毛布に精製して衣料の補充につかわれていた。馬場先生が指導にあたっていた。
二十七年二月、初めて乳牛を導入した。とにかく初めて乳牛の実物を見た時、不安が先になり、この日より生活が一変した。絶対家をあけられなくなってしまった。三六五日、朝四時から夜十一時までの格闘が始まったのでした。
ミルクが出来たから、今度はイチゴを栽培しようと夢は果てしなく広がっていったが、苦悩の連続であった。イチゴの収穫は半月くらいだが、これも朝露のあるうちに採取して、すぐに箱に詰め、傷むので背中に背負い、自転車で、東京の馬込市場まで出荷した。背中に背負った角張った箱は四十キロはあった。重かった。丸子の橋で休もうとしても、市場までの時間がない。苦しかったが、生活がかかっていたので、夢中でペダルをこいで走った。ようやく市場に着くと、すぐにセリにかけられた。
一度途中で自転車がパンクして、歩いて市場までたどり着いたら、すでに市場は終わっていた。二、三名残っていた八百屋さんが、気の毒がって引き取ってくれた。なさけない思い出である。
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