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都筑区 社会

公開日:2023.08.10

港北区の新井勲さん
空に散った命たどり30年
日米の兵士対象に

  • 資料や遺品を手に、活動を振り返る新井さん

一つ一つ、人と人つなぐ

 第二次世界大戦末期、疎開先の静岡で空襲に遭い、後に、そこで過ごした日々の記憶をたどり始めたことをきっかけに、日本で墜落したB-29の乗組員や特攻隊員の足跡を追い始めた人がいる。港北区在住の新井勲さん(88)だ。調べる中で知った事実は、できる限り遺族を探し、伝えてきた。「亡くなった父や兄に思いを馳せる遺族の表情に触れられるから」。その一心で約30年間、この活動を続けてきた。

疎開先にB-29編隊

 新井さんは5人兄妹の末っ子として東京に生まれた。10歳の時、兄一人を除く一家6人で母親の実家のあった静岡市葵区に疎開した。

 終戦間近の1945年6月19日の午後11時30分頃、120機を超えるB-29の編隊が来襲し、およそ1時間半にわたる爆撃により、街は一面の焼け野原と化した。静岡大空襲だ。

 新井さん一家は着の身着のまま火の海の中を逃げ回り、時に死体をまたぎながら安倍川の土手を目指した。幸い6人は無事。不思議なことに新井さんは火傷一つ負わず、その間、周辺の音や人の声も一切、耳に入らなかった。

 米軍機の空襲が止む頃、2機のB-29が上空で衝突し、墜落した。近くに倒れていた乗組員の米兵を大人たちが囲み、生死を確かめる様子を少し離れた場所から目にした新井さん。米兵は仰向けに倒れ、太い足にはパラシュートのベルトが食い込み、身体からは血が滲み出ていたが、初めは確かに動いていたように見えたという。

 これらの体験が、新井さんの後の活動につながっていくことになる。

最後の一軒でやっと

 30年ほど前、1年2カ月に及ぶ静岡の疎開生活について、ふと「もっと知りたい」と思い、当時のことを調べ始めた。

 現地に足を運び、資料館で古い航空写真から新井さんが通っていた学校を見つけた。区画整理ですっかり変わった街並みを、元の通学路を中心に、当時を知る人がいないかと個人宅を訪ねて回った。「これで最後」と立ち寄った一軒で、記憶の片隅にあった街の様子を聞くことができた。「やっと辿り着いた」

 約2000人が犠牲になった静岡大空襲。中には、新井さんの疎開先からすぐ近くにあった豆腐屋の子どもで、よく遊んだ小4と小1の姉弟も含まれていた。これは、書籍『静岡市空襲の記録』に掲載されていた一通の投書で知ったことだ。

 空襲があった6月19日の日中、新井さんは2人と過ごし、「また明日遊ぼう」との言葉を交わして別れた。以来、会うことはなかったが、「きっとどこかに逃げたんだろう」と思っていた。

 しかし、2人は墜落したB-29の機体の下敷きになり短い生涯を終えていた。その場には2人を抱きかかえるように泣き崩れる母親がおり、当時11カ月になる子ども(女性)が背負われていたことも明らかになった。

 16年前、新井さんは62歳になったこの女性を探し当てて連絡を取り、女性の姉と兄に優しくしてもらった思い出を伝えた。親から姉と兄の存在は聞いていたが、それ以上を知らされていなかった女性は、驚くとともにとても喜んだという。

 「一つ一つが、人と人とがつながっていく。そこには悲しみもあるが、喜びや達成感がある」

 新井さんは、目の前で傷ついて倒れていた米兵のその後についても調べた。「できれば墓参りをしたい」とも考えた。

 調べるうちに判明したのは、ケンタッキー州にある国立墓地に、ともに埋葬されている11人のうちの1人であること。妻の病気で訪米は叶わなかったが、新井さんは、供養にと現地に花を送る。「亡くなってしまったら、敵も味方もないのではないか」

全ては聞き取りから

 今では、B-29墜落史実研究家として活動してる新井さん。調べるのは、主に日本で墜落したB-29を含む米国爆撃機・戦闘機等の乗組員らの足跡だ。この30年間で手がけた対象は実に150件。手がかり一つ一つについて、現地での聞き取りに始まる調査の過程では、大使館に思いを伝える手紙を出し、米国要人の慰霊祭への参加を実現した経験もある。調査には、もちろんネットや各種文献も駆使するが、1件の調査に3年半を費やしたこともあるという。

 活動が認知されるにつれ、次第に、遺族が参加する慰霊祭を主導する機会が増え、各地で講演も行うようになった。今年6月9日には、訪日した3人の遺族に江東区の墜落現場を案内したばかり。遺族からは「海に墜ちたと知らされていたのに」と感謝された。

特攻隊員の体温感じ

 新井さんはまた、日本の特攻隊員の足取りについても調べている。

 鹿児島県の鹿屋海軍航空基地から出撃したある隊員は、日記などから中原区在住だったことが分かった。日記には、茨城県の谷田部海軍航空隊に属し、そこから出撃地に向かう途中、家族のいる実家の上空で機体の翼を振って別れを告げたことも記してあった。特攻で若い命を落とした隊員の遺品、腹部にめり込んでいた時計や血糊のついた和歌、写真など、新井さんの自宅には、たくさんの資料とともに、遺族から預かっているものが大切に保管されている。

 新井さんによると、東京湾に墜落したB-29は13機。「今、東京湾の夜景は綺麗だが、海の中に沈んでいる兵士にも光を当てたい。遺族とつなぐことが兵士にとっての光になれば。(特攻隊員の)この時計だって、こう手を当てると体温が伝わってくるようでね」

 真実を知り晴々とした遺族の顔が目に浮かぶ限り、これからも活動を続けていくつもりだ。

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