泉区 社会
公開日:2023.08.10
満州・公主領から安東を経て
悲観もせず、ただ延々と歩き
白百合在住 瀬戸口亮輔さん
1938(昭和13)年に鹿児島で生まれた瀬戸口亮輔さん(85歳)。父の治夫さんは当時には少ない大学卒だったが就職難の時代だった。「そんななかで、満州は天国のようなところと言われていたよう」。亮輔さんが1歳頃の時、一家は生活の拠点を満州の公主領に移したという。弟の恵輔さんは満州で生まれた。
天国といわれた満州で
戦況が悪化する中、「ソ連が攻めてくる」と言われるようになってきた。公主領は満州の中でも北部に位置していたため、いまの北朝鮮に接する安東(現・丹東)に移ることとなった。
亮輔さんが6歳の頃、父にも赤紙が届いた。「もっていかれてしまった」――。結局、治夫さんとはそれきりで、戦後になってようやく、戦争中に病死したと国から伝えられただけだった。
1945(昭和20)年の夏、日本は戦争に負けた。「それまで日本人は満州で上から目線でいたのが、ひっくり返って。唾を吐かれたり、石を投げられたり」。日本人学校の校舎は「唯一の財産」ともいえる建物で日本人は身を寄せ合って、なんとか暮らしを続けた。
失われた秩序
「戦争が終わって、満州はめちゃくちゃ。軍隊も警察もいないし、医者だけでなく薬もない」
母のみち子さんと弟は体調を崩して床にふせ、病名もわからないまま順に命を引き取り、亮輔さんは孤児になった。
その時の気持ちを「少しうれしかったのもある」と明かす。寝たきりの母と弟のため、遠くの町までほんの少しの食料や水を分けてもらいに通う日々に「負担が大きかったんだと思う。弟は幼すぎて、一緒に遊んだ思い出もないから」。
しばらくして、「葫蘆島(ころとう)から船が出る」と日本への引き揚げができることになったと知らせが入った。「あれはどれくらいだったのか...少なくとも2週間は歩いたと思う」。親戚からはぐれないよう、ただただ歩いた。
「悲観的な気持ちでもなく、子どもだったからついていくだけ。大人の人たちは国に帰れるって希望を持っていたのかもしれない。前も後ろも行列だった」
道中にはこうりゃんのスープのようなものが配給されたが、小石も混じっていた。それ以外に食べるものはなかった。
その後、帰国した亮輔さんは祖母の元で育ち、工業高校に進んで電電公社などに勤めた。「戦争なんてちっとも生産性がないもの。平和だったらなんでもオーライよ」
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