寄稿 戦争体験記〜東京大空襲〜 語り継ぐ戦争の記憶【4】 港南区遺族会 新井 淑雄
大空襲の後、親戚一家の住む月島に避難をしました。月島の家に着くと、親戚のおばさんは祖母に抱きつき「皆さんご無事でよかった」と喜んでくれました。本所・深川は全滅したと聞いて心配していたとのことでした。築地の魚河岸に勤めるご主人も夜に帰宅し、これからの行き先を相談していました。私は年下の子どもと連れだって翌日「勝鬨(かちどき)橋」へ出かけたことを覚えています。
浅草から埼玉へ
行き先は祖母の実家と決め、清澄通りを浅草へ向かいました。森下から両国へ来ると左側に大相撲の国技館が残っていました。焼け跡には片付かない焼死体もあり、人々はウロウロした様子で、家族を探しているのだろうと思いました。
吾妻橋を渡り、松屋へ着いてホッとしましたが、東武線は空襲で寸断されていたため、地下鉄で上野に出て東北線に乗り、久喜駅から6Kmの田舎道を歩き通して、ひとまず母方の祖母の生家がある八代村(現・埼玉県幸手市)に到着し、涙の対面をしました。
八代村の家には母と下の妹が残り、翌日、祖母は上の妹と2Km先にある田宮村(現・杉戸町)の自分の生家に向かいました。私は1人、祖父の生家に住むことになりました。歩いて母の所へは5分、祖母の所へは20分程。3軒とも農家でした。
新井家本家での生活は20日位。祖父の弟である大叔父にはよく叱られました。返事は「うん」と云わずに「あゝ」と言え、ご飯の最後はお茶を入れ、白菜のおしんこできれいにしてお茶を飲み、自分の場所に片付けろ、などでした。農家は忙しく、小さな頃から自分の事は自分で始末しろということです。草取りを手伝い、野草をとり、手を汚すと、つかまって手を洗わされました。とはいえ空襲はないし、白い米のご飯をしっかり食べられる農家の生活はいい体験でした。
(続く)
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