寄稿 戦争体験記〜東京大空襲〜 語り継ぐ戦争の記憶【5】 港南区遺族会 新井 淑雄
木小屋で馬と同居
昭和20年4月初旬、迎えに来た母と下の妹の3人で祖母と上の妹がいる田宮村の家に移り、家族5人で木小屋に住むことになりました。その家は2町歩(約2ヘクタール)の田畑を持つ自作農の家です。
農家は宅地の中に生活の場である母屋(おもや)と、農機具を収納し、雨天時でも作業ができる木小屋があり、食料を保管する倉庫があります。私たちが住むことになった木小屋は、隣に馬小屋が続いており、裸電球1つでの貧しく、きびしい生活でした。
祖母も肩身狭く
私は戦火で家を失い、父親は国のために戦っているのだから、もっとよい待遇をしてくれないのか、と祖母に尋ねました。すると祖母は、「妹に家督をゆずり、私はすでに家を出ている。今は妹の息子夫婦が後を継いでいるため、思いのままにはならない。今はこちらで経済的にも物品面でも世話になっているのだから我慢しなさい」と言われました。姉である祖母自身が肩身の狭い思いでいる事を知りました。
こうして母屋と木小屋の二世帯の生活が始まりました。小さなカマドと七輪で裏の林から薪を拾って煮炊きをしました。井戸水は豊富でいつも溢れています。お風呂は母屋へ行き、もらい風呂です。日常の食事も母屋とは差があり、白米のご飯や肉類は程遠いものでしたが、季節の野菜や、じゃがいもなどは農家の手伝いでもらうことができ、空腹でないことは幸いでした。トイレも屋外用があり、自家用としました。
こんなことがありました。妹が麦めしを見て、ゴミのご飯と言いました。また、ご飯の中に大根、さつま芋などを炊きこんだ事も多くあり、今でもご飯に混ぜものはイヤだ、というトラウマな思いが続いています。
(続く)
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