寄稿 戦争体験記〜東京大空襲〜 語り継ぐ戦争の記憶【8】 港南区遺族会 新井 淑雄
竹の子貧乏生活
疎開をして1年余りは預けておいた衣類を売り、蓄えを使っての”竹の子生活”(竹の子の皮を1枚ずつ剥ぐように生活すること)でした。母は職を探し、織物工場に勤めることになりました。祖母は朝4時半に七輪に火をつけ、母が子どもたちの弁当を作り、6時には家を出て4キロ歩いて工場へ向かいました。昼休みに町で夕食のおかずなどを買い、午後6時には帰ってきます。祖母は子どもたちを学校へ送り出し、知り合い宅で掃除、子守りをして暮らしました。お互い貧乏人同士で、寺での共同生活も極めて質素な日々でした。
昭和22年9月16日、キャスリーン台風のため利根川が決壊して床上浸水となり、近くの高台で半月ほど過ごしました。その時に農家の人と食べ物の差を見せつけられました。近所の人たちであり、決して悪意がないにしても、貧しさは目の前にありました。いつも飢えた気持ちがありました。
それからの日々
昭和24年春、新しい学制で田宮村立中学校に入学しました。この頃になると、お寺での同居生活から東京へ戻る家族もあり、残ったのは我が家と母子2人でした。共に戦災に遭った遺族で、墓地も並んでおり、墓参りの際は一緒にお供えをします。こうして疎開生活も田舎の生活にも慣れてきました。近所の農家から畑を貸してもらい、野菜づくりをし、その時々の野菜が食卓に上がりました。
中学卒業後に自分の就職が決まり、母と横浜に向かいました。その後、単身寮生活をしながら神奈川工業高校に入学。20歳で卒業した後、別会社に就職して定年まで仕事を続けました。東京五輪の翌年、1965年に港南区に居を構え、今に至ります。(次回最終回)
過去連載分は【URL】http://www.townnews.co.jp/postwar70.htmlで掲載中です。
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