戦後75年が過ぎ、あの惨劇を語り継げる人が少なくなってきている。西谷町に暮らす三澤玉江さん(87)は当時、小学5年生だった。本紙では「後世に伝えよう」と三澤さんが執筆した手記を3回にわたり紹介する。
70年近くも過ぎてしまい記憶の順序は確かではありませんが書いてみました――。
その日は夕方明るいうちから空襲警報が鳴り響き、近所の人や家族みんなで防空壕に行きました。あたりが不気味な静けさの中、敵機B29の音が聞こえていました。皆じっと我慢していましたが、暗くなったときに空からヒューン、バシーン、ドスーン、バリバリと生きた心地がしない雰囲気でした。そのとき、誰かが私の家に爆弾が落ちたと言っていたので、すごく心配になりました。壕の入り口辺りの人はここまで煙が入ってきたと言い、近くまで真っ赤に燃えているぞと言う人もいました。とても恐ろしかったのですが、でもみんな我慢して無事を祈り、「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」と真っ暗な中で祈っていました。
夜が明けるのを待っていたら敵機の音も、大砲の音なども静かになってきました。恐る恐る外に出たら、私たちの家は無事だとのことでほっとしました。でも空からは、光ったアルミホイルのような幅1・5cm位、長さ1cm位のテープが沢山、ヒラヒラゆっくり降りてきて、とても気味が悪く、こわごわよけながら、歩いて家に帰りました。すぐ裏の田んぼに何か大きな鉄の破片が突き刺さっていました。先ほどの爆音はこれだったのかと大人たちも見ていました。一寸外れたら大惨事だったのによかったと、みんな胸をなでおろしているようでした。
空から降ってきたテープは電波探知機だと誰かが教えてくれたのを覚えています。家に帰ってみると、近所の人や兄達から、上星川は全部焼けてしまったと聞き、私と妹と二人で水道道を歩き、こわごわ見に行きました。今の篠崎医院の前が一面田んぼだったのですが、そこに六角型をした長さ1m位、直径15cm位の焼夷弾が突き刺さっていました。それは、5、6本の茶色とグリーンの混ざった色をした筒でした。朝になっても田んぼがメラメラ燃えていました。駆け足で両群橋の方に行ったら、近くの紡績工場の社宅が全焼して何もなく煙でくすぶっていました。呉服屋さんも、お風呂屋さんも反対側の工場も皆なくなり煙でくすぶっていました。
途中で出会った知り合いのおばさんは、焼け跡で娘さんの晴れ着の焼け残りをつまんで引っ張り、座り込んで胸一杯にしていたのが印象に残っています。
今の国道16号に出ての帰り道、杉山神社の鳥居の前の家も全焼、今の小平種苗店のある場所も焼夷弾が落ちて燃えました。水道山からカーリット工場を狙われ、外れた弾で焼けてしまったらしいのです。今では誰にもあの大惨事を信じて頂けないほど上星川、川島、西谷は復興し、平和になりましたが、この時代がいつまでも、いつまでも長続き致しますように心よりお祈り致します。
(つづく)
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