神奈川区 文化
公開日:2025.08.14
仙台で父と見た火の海
六角橋在住 高矢崇さん(92)
約50年前から六角橋に住む高矢崇さん(92)は戦中、戦後に体験した数々の記憶を呼び起こし語った。
長野、宮城へ疎開
1944年、小学6年生の時に住んでいた東京・下北沢から、長野県松本市の温泉旅館へ集団疎開を経験した。わずか3カ月後に父親が経営する工場が宮城県へ疎開することになり、高校3年生まで宮城で暮らすことになる。その頃、蔵王山の山頂から父親と2人で見た仙台空襲の光景は、今も脳裏に焼き付いている。「仙台一面が真っ赤だった。飛んでくる航空機を地上から撃ち落とそうと高射砲が放たれていたが、敵の飛行機には全然届いていなかった」。子ども心に感じた、ただただ圧倒されるような悔しさは忘れない。
イナゴ集めが宿題
小学3年生の頃には東條英機が首相になり、同じ世田谷の国民学校に通っていた東條の娘が転校するなどという噂を耳にしていたという。1942年には先生たちが次々と兵隊に取られていった。食糧難は深刻で、小学6年生で始まった給食は、四角いアルミのお弁当箱に、梅干し一つが乗ったご飯と白湯。「毎日出るわけではなかったと思う。常におなかが減っていた」。
小学生の頃の宿題は「イナゴ集め」。学校の帰り道に田んぼに寄ってイナゴを集めるのが日課だった。「一日100匹くらいは捕まえてたが、その後どこへ集められていたのかは知らない」。
松根堀り
中学1年生になると、早朝から午後2時頃まで松の根から油を採る「松根掘り」に動員された。50センチメートル四方の大きな切り株を4、5人で掘り起こしていたといい、「松の根からとれる油なんて、今考えれば大したことのない量なのに、当時は一生懸命だった」と苦笑する。
水筒代わりのアルミ製品はすべて国に没収されているため水分補給はできず、白米に味噌を塗って焼いた「やきめし」を持って現場へ向かっていた。当時、大人たちが口にする「最後は神風が吹く」「特別な兵器があるから必ず勝つ」といった噂は何度も耳にし、他の生徒たちと同じく漠然と信じていたという。
終戦後はさらに暮らしが厳しくなり、「米に小さく切ったジャガイモやサツマイモが入ったものを食べていた」。高矢さんは戦争に翻弄された日々や苦しい生活をふまえ、「戦後、平和が保たれていたからこそ豊かでいられた。平和を壊してはならない」と、これからの時代を担う人々に強く訴えた。
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