多摩区・麻生区 社会
公開日:2025.09.12
戦後80年 戦禍の記憶【11】 麻生区王禅寺西在住 曽武川(そぶかわ) 重春さん(94)
積まれては運ばれる遺体
まひした恐怖心
東京都文京区、東京大学赤門の並びの長屋で、5人きょうだいの末っ子として生まれた。10歳のときに真珠湾攻撃が起き、開戦。「いつも日本が勝っていると聞いていたから、戦争がそんなに恐ろしいものと最初は思わなかった」
だが戦局が悪化すると状況は一変。東京大空襲の半月ほど前、板金工を営む父の工場がある下谷地区(現在の台東区)が空襲を受けた。数日後、父と共に現地へ行くと橋から見下ろした隅田川は遺体で埋め尽くされていた。「あの広い隅田川が人の死体でいっぱいだった。水なんか見えやしない」
そして3月10日未明、米軍爆撃機B29の空襲で東京・下町は死者約10万人、負傷者4万人という大被害を受けた。焼夷弾による火の海の中、夜中にもかかわらず戦闘機を操縦する米兵の顔は「はっきりと見えた」。近くの東大に逃げ込むと、幸いにも焼夷弾は落ちてこなかった。「もし別の方向に逃げていたら、今、生きていない」
東京が焼け野原になり茨城県へ一時避難。ひと月ほどして東京・青山へ転居した。青山でも空襲を受け青山霊園へ逃げた。空襲後、辺りに火がくすぶる中、表参道へ行くと石灯籠付近にどこからともなく遺体が運ばれてきた。トラックで運び出されるとまた次の遺体が山となる。その様子を繰り返し見た。「真っ黒に焦げていた。人の形のまま」。感覚がまひして恐怖心がない。ただ赤ん坊を抱えたまま真っ黒になった母親の遺体を見て「可哀そう」と思った。
赤坂御所の脇道を歩いていたとき。止まっている黒焦げの車の横を通り過ぎようとして何かを踏みそうになった。下敷きになった人の頭だった。「危うく踏んでしまうところだった。ぞっとした」
玉音放送は家で母と聞いた。「負けたというのはよくわからない。でも、戦争が終わったんだと思った」。戦後も食料難は続いた。あるとき米軍支給のコンビーフを口にし、「米兵はこんなうまいもの食べていたのか、これじゃ勝てるわけがねえやと思った」。
こうして思い出すと今の日本は平和だとつくづく思う。「戦争をする国のリーダーは、自分の家族が犠牲者になったらどんな気持ちになるか、考えないのだろうか」と語気を強める。「もう二度とあの苦しみは味わいたくないよ」
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今年で戦後80年。体験者が年々減少し、戦争の記憶が風化しつつある。当事者の記憶を後世に残すとともに平和の意義について考える。不定期で連載。
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