〈第7回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる【7】 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会
この頃、京に於いては正に平家に非ずんば人に非ずと平家一族は豪語し、朝廷・権門・神社・仏閣等に君臨していたのである…がしかし、平家打倒の気運は東国をはじめとして信濃木曽義仲、甲斐武田信義、安田義定等各地に燎原の火の如く広がり、平家側の対応も情報が錯綜し、戦略・戦術に関して意見を陳べる者が、具申を出来る者が不運にも不幸にもその中枢にいなかった…強大な権力を掌中にしながら軍事行動は敏速を欠いていたが、清盛の叱咤があったのか…。頼朝の鎌倉入りの十数日前、平家は重い腰を上げた。大将に平維盛を戴き頼朝追討軍、進発す。維盛は清盛の孫であったが、およそ武者として相応しくないきらびやかな装束で東国目指して進軍して行った事だろう。
一方、頼朝の帷幕の一員として幸運にも参加を許された渋谷一族、参加を許された経緯もさる事ながらその一挙手一投足・言動にも細かい配慮があった事だろう。頼朝の帷幕とは言わずと知れた錚々たる側近達。渋谷氏もその存在感を現すには工夫と努力を要した。ともあれ、これから頼朝方は強大な平家方と国の覇権争いに突入していかねばならない。渋谷家としても頼朝の信頼を得ながら領土の保全・経営も計っていかねばならない。長男・光重は一族を束ね、次男・高重は頼朝の許へ出仕となる。頼朝とてこの錚々たる側近を掌握し、各地に蜂起した源氏ゆかりの氏族たちとの連携・統御にも配慮してゆかねばならなかった。
一方9月29日、京を進発した平家頼朝追討軍80里の行軍。もう朝夕、冷気が忍び寄る気候となっていたが、帷幕の結論があったのか10月18日駿河国富士川西岸に着陣。19日間の行軍を要したが、果たして諸将・将卒の戦意は維持されていたのだろうかこの頃、頼朝は帷幕の意を受けて平家頼朝追討軍への迎撃態勢を整え西上の途についていた。その平家迎撃軍の中に、既に老境に身を置きつつあった重国は矍鑠として一族を率いて参陣していた。陣中には光重・高重等、一族の雄姿があった。日頃よりこの時の為、農耕の傍ら武具武装を整え鍛錬を重ねて武人としての嗜み、矜持を身に纏い頼朝軍の中に存在感を示さねばならなかったが、出る杭とならない配慮も必要な事であった。
【文・前田幸生】
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