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綾瀬 あやせの歴史を訪ねてコラム

公開日:2015.09.11

〈第15回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる15
あやせの歴史を訪ねて
綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

  • 渋谷氏の城跡と伝えらえる「早川城跡」

 義仲、木曽で挙兵してから3年半。平氏の都落ちで入京してから僅か半年程の事であった。入京以来、旭日(あさひ)将軍と持て囃(はや)された栄光の日々だったが今は…。義仲天を仰いだ事だろう。追従するは旗上げ以来の股肱(ここう)の臣、数騎のみであった。気が付けば近江国、粟津の辺りに敗残の主従の落魄(らくはく)の姿があった。迫り来る打倒義仲の蹄の音が主従の耳に届かなかったか…!?



 それより少し前、義仲追跡の軍勢の中に相模国・石田庄の豪族・石田為久の雄姿があった。石田一族は三浦氏系の小武士団だが、智勇兼備の坂東武者だった。乗馬に騎射に、畿内・西国の武士達を遥かに凌いでいた。



 そして戦場において先陣を切り人馬一体となって活躍するのは大豪族に挟まれた小豪族・小武士団だった。石田為久もその一族だったが…。早くも義仲主従に指呼(しこ)の間(かん)に追い縋(すが)ってきていた。



 彼我(ひが)の距離縮む中、為久大音声(だいおんじょう)に名乗りつつ強弓(ごうきゅう)を引き絞りつつ放った矢に、颯爽として京洛を睥睨(へいげい)した一代の寵児は、己に向かってくる強弓の矢音を聞きとっていたのか…。一声(ひとこえ)も発せず落馬した。



 義仲、邯鄲(かんたん)の夢だったか…!?追従した数騎の股肱の臣達も幸運にも自刃できた者、不運にも捕縛の辱めを受けて勝者の裁定の場に座する事となった者。歴史は変遷し、因果は巡る。奇しくも裁きを受ける義仲の臣・樋口兼光は、武蔵七党の児玉党の武士であったため、渋谷氏にとっては遠い縁戚となるのであったが、巡り巡って兼光の処刑役を高重、担う事になる。



 高重とて戦陣戦場において命を惜しむ武者ではなかったが…。縁故を頼って降ってきた義仲の股肱の臣・兼光の処刑、ましてや宇治川合戦の時、不覚にも負傷。作法通り刑の執行が叶うか!?武士の面目が問われる事だった。



 一代の風雲児・木曽義仲滅亡。父祖を同じくしながら頼朝の胸中は!?やがて頼朝、勢力圏を大きく西に拡げる準備に着手した。時に元暦元年(1184年)如月の頃にさしかかっていた。義仲討伐も一段落して論功行賞の対象として渋谷氏大きな存在となっていた。



 頼朝の動きは慎重だった。朝廷の後白河院の口車に乗って、迂闊に動かぬ知恵を帷幕と共に持ち合わせていた。渋谷氏、鎌倉軍と行(こう)を共にするため準備万端に追われる日々が続いた。



【文・前田幸生】

 

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