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綾瀬版 公開:2015年12月4日 エリアトップへ

〈第18回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる18 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2015年12月4日

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 思えば頼朝、壮大な平家討滅作戦だった。伊豆韮山蛭ヶ小島へ配流(はいる)の身となってより、石橋山での旗上げまで20余年の歳月。保元の乱(保元元年―1156年)では倶(とも)に戦った清盛、平治の乱(平治元年―1159年)では対立し、悲運に斃(たお)れた父・義朝、2人の兄。霊峰富士を仰ぎながら懊悩(おうのう)と呻吟(しんぎん)の日々だった事だろう。今、功半ばとなり、弟・義経の処遇、懸命の働きをしてくれた東国の武将達への論功行賞、そして院・朝廷への対応。山積する懸案に、頂点に立つ、立たねばならぬ者の苦慮があった。

 この頃、帷幕の将の一人として頼朝側近の一人として重用され頼朝の篤(あつ)い信頼を得ていた梶原景時。平家討滅成り頼朝にとっても政事の裁断を下さねばならなくなり、ここに景時の言動が不世出の英雄・義経の運命に過酷の道を敷設(ふせつ)されてゆく。頼朝とて人として、今までも多くの敵対した武将達を赦(ゆる)し帷幕として登用してきた。私情を挟めない己の立場に呻吟した事だろう。平家討滅に比類なき戦功を胸に、黄瀬川(きせがわ)以来の兄との対面を想い描きつつ鎌倉入りを願った。戦功を誇る気持ちなど微塵(みじん)もなかったが…。兄・頼朝とて駆けつけて義経の手を取って労いたかった事だろう…が、今は景時を始め錚々(そうそう)たる帷幕の将達、その意見腰越止(こしごえど)めとなる。世に言う「腰越状」血涙の嘆願となる。義経、思えば身命を賭して戦ってきた日々だったが…。

 一方、渋谷一族、この頃(文治元年〈1185年〉7月の頃か?)平家討滅戦に多大の戦功を挙げ、頼朝とその論功行賞の査定・配分に苦慮していたが軍の編成上、渋谷家も範頼軍・義経軍と別々の指揮下に参陣を余儀なくされた。義経、天才的戦術と果断な進軍・進撃。一方、範頼は鎌倉の指示と追従している軍監と常に作戦を練りながらの進軍・進撃だった。したがって範頼軍にいた諸将、義経軍にいた諸将、それぞれ命懸けの戦いの日々だったろうが、心理面では大きな差異があった事だろう。渋谷重国、既に白髪の占有が目立っていたが、周囲が気遣う事を躊躇(ためら)うくらい言動に気迫が漂っていた。

 高重とて歴戦の勇士として阿修羅の如き戦いの日々だった。重国が討った原田種直一族より宋との交易の道を収奪(しゅうだつ)。その戦果は大であった…が一方、義経に従った重助、華々しい義経の活躍に感化を受け心酔していったがこの時代の武将達、政事の機微に疎く、情勢・判断が甘かったか…。迂闊にも義経に随行(ずいこう)して後白河院の許に司侯(しこう)していた。

【文・前田幸生】
 

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