史訪会(今壽夫(こんとしお)会長)が、江戸時代の画家・渡辺崋山の書いた「遊相日記」で知られる「お銀(本名・町)」の歩いた道を全6回、3年がかりで踏破した。長期に渡る企画は、同会では初めての試み。
同会は、歴史や神社仏閣などを巡ることを目的に、約30年前に発足した。現在22人が所属し、夏を除いた毎月第3日曜に活動。綾瀬市内だけではなく、鎌倉や静岡なども訪れている。
今回の企画は「綾瀬にも、こういう歴史上の人物がいたということを知ってほしい」という思いから、今会長が発案した。18歳のお銀が奉公に出るために1日で歩いたという、生家(市内早川)から田原藩上屋敷(現在の三宅坂小公園/東京都千代田区)まで50Km弱の道程をたどった。
お銀の生家を発った一行は初日でさがみ野まで歩き、続いてすずかけ台、鷺沼、用賀、渋谷まで踏破。最終日には途中で江戸城外堀跡の「赤坂見附跡」=写真左下=なども見学し、目的地である渡辺崋山生誕の地(田原藩上屋敷跡)=写真右下=に到着した。
藩主の寵を受けたお銀
お銀は相州高座郡早川村の百姓、佐藤幾右衛門の娘。11代藩主・三宅康友の寵を受け友信を産み、その子である康保が15代藩主となり、藩祖の血統を継承したという。友信出産の翌年、母の急逝で実家に呼び戻されたお銀が三宅家に戻ることはなかったが、縁あって再婚し4男1女を出産。後年、友信の命を受けた崋山が、お銀を尋ねて綾瀬に訪れている。