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綾瀬版 公開:2016年3月11日 エリアトップへ

〈第21回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる21 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2016年3月11日

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渋谷氏の城跡と伝えらえる「早川城跡」
渋谷氏の城跡と伝えらえる「早川城跡」

 ここ鎌倉、今一時(ひととき)の平安の時が流れていた。諸将は鎌倉に出仕しながら領土の整備、経営に余念がなかった。頼朝、大江広元を公文所の別当に置き、有職故実(ゆうそくこじつ)に基づき、武家の府を構成する為の様々な政策を打出し古来よりの諸行事を実施していった。

 その行事の中に渋谷重国・高重・時国等の参列が頻繁に見られる様になり、渋谷氏の鎌倉の御家人としての信頼の度合が高まっていた。様々な部署組織が構成設置され武家の府が形成されていくという事は、今まで打算と武勇と僅かな忠義で追随してきた東国の武者達、別けても渋谷重国の言動は慎重だった。

 渋谷家の次男であった高重、今は惣領として鎌倉へ出仕させているが、今日(こんにち)迄は重国の配慮は正鵠(せいこく)を得ていた。戦陣戦場へ赴けば弓馬に秀でた武者だったが、戦塵が収まるとその言動は慎重を要し、重国、老齢を重ねながら寿命の縮む想いだった事だろう。いつの世も一言の言動が大きな争いを招いてきた。

 何かと参列の機会が増えていたが、渋谷一族も京より白拍子の静が鎌倉へ連行されてきていた事、見聞していた事だろう。嘗(かつ)て幾内・西国遠征の折、京の都で静の事は仄聞(そくぶん)・垣間見る機会があったのでは…?

 頃は文治3年(1187年)、ここ鎌倉では間もなく春が訪れようとしていた。たまたま奉納の儀があり、諸将列席の中、八幡宮の神楽殿の舞の時間調整のため、頼朝の発案で静を舞わせて見よとの指示があり、静、固辞するも舞う事となった。

 京で都で、その名を知られ隠れもなき舞の名手だった静、舞台の廻りは粛然として諸将固唾を飲んで見守った。静、肅条(しょうじょう)と、しかも良く透き通る声音(こわね)で唄った。

「しずやしず 賊(しず)のおだまきくりかえし 昔を今になすよしもがな 吉野山 峰の白雪踏み分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき」

 高重を初め渋谷一族、居並ぶ諸将、どの様な想いで観ていたのだろう。静、哀切極まりない渾身の舞だった。静、頼朝の激怒を承知の上の舞だった事だろう。頼朝の妻・政子。後(のち)、尼将軍と言われた程の女性(にょしょう)だったが…。政子のとりなしでその場は収まるも、静に宿った義経の命は川越太郎の必死の嘆願叶わず、安達盛長の手によって稲村ケ崎の沖合の波間を揺り籠となさねばならぬ運命だった。

【文・前田幸生】
 

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