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綾瀬版 公開:2016年4月8日 エリアトップへ

〈第22回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる22 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2016年4月8日

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渋谷氏の城跡と伝えらえる「早川城跡」
渋谷氏の城跡と伝えらえる「早川城跡」

 静、鎌倉八幡宮において渾身の舞を披露。戦場往来の東国の武者達も寂として咳(しわぶき)一つ発する者はいなかったが…!?今、数多(あまた)の頼朝の側近の中でも、頼朝に面と向かって静の処遇について進言する者が、頼朝の妻・政子以外いなかったのか!?既に鎌倉は、梶原景時をはじめとして北条・三浦・和田・比企・安達・川越・畠山氏等々、官僚的政事が台頭しつつあった。側近達の政治感覚で、頼朝の権力が形成浸透されつつあったのか…!?ましてや渋谷一族、重国・高重郎党、畿内・西国遠征の折、義経の指揮下で戦場を駆け巡った事が、記憶に鮮明だった。静の処遇に高重一言(ひとこと)、言上(ごんじょう)したかったに違いない。重国、隣で制止したのか…!?

 ともあれこの頃、義経、北陸道を一路、奥羽平泉を目指して必死の逃避行であった。今は修験者に身をやつし、弁慶をはじめとし僅かな供のみであった。静が鎌倉で舞っていた頃、義経一行は安宅(あたか)の関にさしかかっていた。春とはいえ、名のみの北国の寒さだった。弁慶の勧進帳(かんじんちょう)を読み上げた名口上で見事、関所通過叶ったかと思えた時、関守(せきもり)、富樫より誰何(すいか)される。弁慶、心を鬼にして未熟者めと義経を打擲したのだった。本来なら義経、鎌倉の頼朝の許にあって兄を支える立場にあった筈だが、今は落魄流浪(らくはくるろう)の身。弁慶の打擲に身を震わせ、背に負った笈(おい)が辛うじて護ってくれていた。世に言う安宅の関の名場面である。

 この頃頼朝、朝廷、後白河院、官位の贈呈をちらつかせながら頻(しき)りに上洛を促してきていたが頼朝の言動は慎重で、鎌倉を動かなかった。平地の乱(1159年)から今日(こんにち)迄、平清盛・木曽義仲等の朝廷・後白河院の処遇対応を冷静に観察していた頼朝だった。迂闊に動けば、前車の轍を踏む事を頼朝、知悉(ちしつ)していた。20有余年の辛酸だった。逸(はや)る心を抑えて、奥羽平泉の藤原氏の動向に配慮を巡らせていた。

 渋谷氏も渋谷一族もまた、一時の安穏を貪っている余裕などなかった。広大な渋谷荘の領地に加え、戦功の恩賞としての所領を各地に領有。遠隔地の統治に一族の意見・意思への配慮に重国・光重・高重渋谷一族の鳩首(きゅうしゅ)会談が催され、戦功と領土の配分に苦慮が続いた事だろう。東国の武家・武士達にとっては、領土とは血と汗で開拓した一所懸命の土地だったのだ。また、高重・重国の意を汲み鎌倉出仕の折々、近隣四囲の諸将達との交際・外交は如何だったのだろうか!?

【文・前田幸生】
 

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