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綾瀬版 公開:2016年8月26日 エリアトップへ

〈第25回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる25 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2016年8月26日

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 頼朝、奥州征伐の大軍を催し、進軍の馬上にあった。想いは古来より精強を謳われた奥州軍との、間近に迫ってきている戦だった。ふと、その奥州軍と戦った父祖達の事、別けても父・義朝、平治の乱に敗れ落ち行く途上、知多の野間にて家人・長田の手に掛かり、頼朝、伊豆韮山へ配流。雌伏20年、石橋山での旗上げ・惨敗・再起。そして平家討滅。今、最後の仕上が待っていた。奥州平泉に藤原一族が渾身の想いを込め築いた絢爛たる文化都市、仏教建造物。頼朝、錯綜した心中の整理に呻吟していた。一方、泰衡。頼朝の配慮が得られない場合の事も勘案。和戦両様の心算を案じていたが、秀衡が死の床で残した言葉、列座した重臣達、胸に刻んでいたが、一連の泰衡の言動・所業に、累代の重臣・家臣達はどの様な想いで対応したのだろうか!?泰衡、藤原家を護り支えてきた重臣達の結束に緩みが生じていた事に、配慮が届いていなかった。季節(とき)は7月の半ばを過ぎていたが、奥州の夏の厳しさを知らなかった。多くの鎌倉軍将兵達、奥州路の行軍は苦難だった事だろう。頑強な抵抗を覚悟していた鎌倉軍、士気の維持が懸念されていたが、時に文治5年(1189年)8月8日。阿津賀志山(あづかしさん)(福島県伊達郡国見町)辺りで、奥州軍と戦端を開く。如何に精強の奥州軍と雖(いえど)も、怒涛の如き鎌倉軍。ましてや棟梁と仰ぐ泰衡、決然と戦う姿勢を示さず、父祖が心血を注ぎ築いた建築物や宝物庫を灰燼に帰し、未練にも頼朝への講和を打診する。

 相模国渋谷庄に渋谷重国の一族として生を受け、桓武平氏の矜持を胸に秘め、平家討伐の折、畿内・西国、我が庭の如く疾駆した渋谷一族。その武名は轟いていた。高重・時国、奥州路・奥州戦線に於いても、獅子奮迅の活躍だった。頼朝、帷幕の武将達の間でも手柄争いがあり、高重その様な状景をどの様な想いで観ていたか!?戦功はこの時代の開拓・開発武士団には領土取得の大事な要因だったので、戦場に於ける手柄争いは真剣だった。戦場往来の武将として高重、充分承知していた。戦場に赴いている将兵達、当然の事ながら寧日なき日々だった。一方、鎌倉では、渋谷の庄では重国・光重等、留守を預かる一族郎党、鎌倉の有職故実に基づく諸行事の執行、また、渋谷の庄では戦費の負担に耐えながら、祭祀を含む諸行事の催行に余念が無かった。また、奥羽戦線の情報の収集も大事な務めだった。一方、奥州戦線、呆気ない終息だった。果敢(はか)なくも泰衡、頼朝の進撃の手を逃れ、累代の家人・河田次郎を頼り、出羽国(でわのくに)北端で討たれる。頼朝、望外の報せだったが…!?河田次郎、勇躍。泰衡の首を持ち、奥羽路を駆けた事だろう。河田、頼朝の父・義朝が東国へ落ちて行く時、知多の野間で義朝の家人・長田忠致に討たれた事を承知していなかったのか!?

【文・前田幸生】
 

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