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綾瀬版 公開:2017年4月7日 エリアトップへ

〈第31回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる31 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2017年4月7日

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 頼朝、大山を篤く奉じていた。伊勢原・秦野・厚木の境に位置し、相模国の中央ほぼ北西部に屹立し、1252mの標高を誇示していた。大山阿夫利神社の創建は紀元前97年の頃と伝えられ、大山祗神(つみのかみ)を祀り、その中腹、大山一之沢薬師道を辿れば、日向薬師(日向山霊山寺(りょうせんじ))に至る。開創は和銅9年(716年)の頃か!?僧・行基に依って…と伝えられる。渡来人の行基は、野に在って名僧の名を高めていたが、名僧といえども「故郷忘(ぼう)じ難し」だったろうか!?「ホロホロと鳴く山鳥の声聞けば父かとぞ想い母かとぞ想う」…と詠った名僧の心中は…。のちの聖武天皇(45代)の信を得て、朝廷の仏教振興に尽力した。

 一方、渋谷一族、重国・高重、曽我兄弟の富士の裾野の巻狩の討入り以来、心の安らぐ日は無かった事だろう。頼朝、遠慮と任怨(にんおん)の決断を下し、渋谷氏をはじめ、鎌倉府の御家人達の中にも安堵した氏族・一族もいた事だろう。頃は建久5年(1194年)8月8日、盛夏は越してもなお炎暑。重国、老躯に鞭打ち泰然自若として騎乗し、頼朝の日向薬師参詣の随行の隊列の中にあった。重国とて秩父の地より相模国渋谷庄進出以来、我が領地より朝な夕な遥拝(ようはい)している神の山だった。

 この酷暑の中、重国、大山一之沢薬師道、騎乗のまま辿れる道ではなかった。時の鎌倉幕府の将軍、頼朝の参詣と言えども楽な道程ではなかった。重国、艱難辛苦(かんなんしんく)の開拓武士・領主だったが多くを語らず、子息・一族に背中を見せての今日(きょう)迄の生き様だった。心中でこれが鎌倉御家人としての最後の奉公かと、万感胸に迫る想いの日向薬師詣りだった。

 森羅万象、永遠の生命(いのち)はないが、人は老いて透(み)えてくる世界を知る。何げなく見過ごしてきた山川草木(さんせんそうもく)、花鳥風月、そして一番大事な我亡き後の行末。今は高重、鎌倉幕府に於いて動きを成し、頼朝の信を得て、光重をはじめ一族郎党、確たる配置は済んでいたが、重国の杞憂は相模国の一角に渋谷王国を築いた者として、当然の事だった。重国、鎌倉出仕の折は老臣らしく言動は慎重だったが、近臣幕閣の何げない会話にも、さりげなく耳を欹(そばだて)てていた。

 この頃、鎌倉の府に於いては、当然の事ながら北条市の台頭が顕在化しつつあり、三浦・比企・畠山・千葉・和田等々、有力近臣幕僚達の暗闘が密かに展開されていた…が。重国、積年の風雪に耐え、今も渋谷一族を統帥出来る立場にあったが、此の後、渋谷家の惣領として位置付けられている高重に権限を移譲しつつ、鎌倉の政権が安定してくれば、当然政治の世界が展開されていく。渋谷家の立ち位置を俯瞰しながら、高重の政治感覚が鎌倉府の政界に対応していけるかと危惧する親心が強かった。頼朝公、この後も健在であれば梶原景時の存在も機能していくだろうし、高重の政治家としての成長を願うのみであった。渋谷王国開拓に汗を流した日々。戦場往来の日々。今、戦いの無い日々が訪れようとしているのに、何故か重国、老残の身が震えていた。

【文・前田幸生】
 

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