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綾瀬版 公開:2017年6月9日 エリアトップへ

〈第33回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる33 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2017年6月9日

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 鎌倉に一時の平穏が、少なくとも表面上は過ぎていた。今、頼朝、有史以来、朝廷・公家の顔色を窺いながら、源氏平氏一族・諸氏、消長(しょうちょう)を繰り返しながらの追随だったが、父祖以来の念願だった武家の府を確たる組織にするため、山積する課題に取り組む日々だったが…。

 時に建久9年(1198年)。頼朝の妻・政子の妹の夫・稲毛重成が早世した妻の菩提を弔うため、相模川馬入橋架橋作事(さくじ)を執り行った。重成、頼朝の御家人として、義弟として、一世一代の晴れ舞台だったが…。運命の歯車は、時として想定外の回転をする。竣工式の帰途、落馬。落馬の瞬間、頼朝の脳裏を掠めたものは…。

 過ぐる日、伊豆韮山で失意の日々眺めた富士の山。今日祝賀の席で源氏の棟梁として、千軍万馬の鎌倉幕府の征夷大将軍として、美酒を嗜みながら富士の山を眺め、束の間の至福の時だったか!?儚くも、師走天気清朗なれど凛冽(りんれつ)の寒気(かんき)、不世出の英雄頼朝の未来を奪ってしまった。落馬の原因は、単なる落馬ではなかった!!政子をはじめ側近達の懸命の看護が続けられたが、薬石効無く頼朝、正治元年(1199年)正月、52歳の生涯だった。

 一代の英傑だったか!?未完の大器だったか!?天はもう暫く時を与えて欲しかった。後世の診断は脳溢血だったと言われている。石橋山旗上げ以来、鎌倉幕府創業樹立運営の初期頃までに源氏の血筋、頼朝に近い氏族を自身の配慮か側近達の意見か、迂闊にも枢要の部署に見当たらなかった。頼朝この事、悔いは無かったか…?

 頼朝健在であれば、議論百出するも頼朝の一言で収まっていたが…。2代将軍の座に就いた頼家、その権力を行使する前に隠忍自重してきた老臣・側近達老獪にも、頼家の独断専行に手を打ってきた。頼家の妻の父、比企能員(よしかず)の存在も大きな目障りだった。高重の父・重国、終生次代を背負う者の選定に苦慮していた事。今、頼家、決して賢明な跡継として、鎌倉の府を統べていけるのか…!?

 前途多難を垣間見ていて、父・重国の心労を想った。頼家のこれからの言動が源氏の、鎌倉幕府の動向を左右していく。高重、今は渋谷氏・一族の命運を担っている身だった。鎌倉幕府の政界を誤りなく判断していく慎重な言動が求められた。また、領地領土の境界等で他氏他家との争い、親類縁者等との軋轢が発生しないよう心労の日々だった。

 大音声(だいおんじょう)で戦場を愛馬で疾駆した日々が今なお懐かしい。高重が鎌倉の政界で苦慮・苦闘している頃、頼朝亡き後、鎌倉政界に波風が立ち始めていた。頼朝存命の頃は梶原景時の言動、鎌倉幕府体制維持のため、頼朝、時機を得た補完をしてくれていたが…。

 【文・前田幸生】
 

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