神奈川県全域・東京多摩地域の地域情報紙

  • search
  • LINE
  • MailBan
  • X
  • Facebook
  • RSS
綾瀬版 公開:2018年2月9日 エリアトップへ

〈第39回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる39 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2018年2月9日

  • X
  • LINE
  • hatena
渋谷氏の城跡と伝えられる「早川城跡」
渋谷氏の城跡と伝えられる「早川城跡」

 渋谷高重、嘗て戦場を疾駆し平家軍を震撼させた歴戦の勇者だったが、今、鎌倉の府に於いて渋谷荘を背負う領主であり、鎌倉の政事を担う政治家だった。梶原氏が、比企氏が失脚し、北条氏の陥穽(かんせい)が何処へ設けてあるか…?渋谷一族を集め鳩首(きゅうしゅ)会議・情報蒐集(しゅうしゅう)に努めていたが、幕閣・有力御家人達の会話の中に不穏・不審を聞き分け、一族の安泰を願う奴雁となっていた。

 その奴雁の脳裏に今、多くの幕閣、有力御家人達、北条氏へ靡(なび)かんとする情勢の中で、毅然として信義に篤い剛直の将がいた。知勇兼備の将と謳われた畠山重忠。桓武平氏・秩父平氏の嫡流の一族だったが、頼朝、石橋山旗上げの折の齟齬がなければ…!今でも鎌倉の府で重きを成していたが…。北条氏の政治手腕が一枚老獪だったか…!?

 時に元久2年(1205年)、執権・時政の要請を受け鎌倉出仕の途上、二俣川のあたりで時政の埋伏した軍勢に敢え無く討たれた。百戦錬磨の勇将だったが…!時の鎌倉の府で強弓の士と謳われていた愛甲李隆(すえたか)が重忠討伐隊に参加していたとは、重忠にとって不運であった。

 北条氏にとって最大の政敵となっていた畠山重忠、名門畠山氏の滅亡を、鎌倉の府の幕閣・有力御家人達、どの様な想いで見守ったのだろうか!ましてや渋谷高重、祖を同じくする畠山氏。北条時政の娘婿でもある重忠を…!?愕然たる思いを禁じ得なかった。

 鎌倉幕府の雄・三浦氏は、重忠の母方になる。反北条家の動向を読みながらの信義に篤い重忠の配慮を逆手に取る様な北条氏の深謀遠慮だったか…!?これで北条氏、念願だった武蔵国の大部分を掌中にした。しかし畠山事件に関し、時政・義時親子の間に意見の齟齬があったのか…!?

 義時、2代目の執権の座に就き、父・時政は伊豆へ隠居の身となる。北条時政、武将としては格別の戦功は無かったが、父を凌ぐ政治家となっていた。今は鎌倉の府に於いても2代執権としての権勢を示し、政治力を顕した。

 渋谷高重、渋谷荘に北条氏の触手が伸びて来る事を心中密かに危惧していたが、当面回避された状況となり一先ず安堵の念を持っていたが、姻戚・縁戚・志を同じくする氏族、別けても三浦氏の一族、和田義盛の憤怒は三浦氏をはじめ一族の氏族も宥(なだ)めるのに苦慮した。

 高重とて渋谷一族で、父・重国がいつも気にかけてくれた激情の持ち主だった。立ち上がって事の理非を問い、北条氏に一撃をと懊悩(おうのう)したが、父・重国のあの寡黙の背中の訓えがあった。一族の中にも高重の優柔不断の言動に賛否があったが、高重には奴雁としての立場があった。惣領として、苦汁を嘗める日々が続いた事だろう。

【文・前田幸生】
 

綾瀬版のコラム最新6

あっとほーむデスク

  • 1月24日0:00更新

  • 12月13日0:00更新

  • 11月29日0:00更新

綾瀬版のあっとほーむデスク一覧へ

バックナンバー最新号:2020年1月24日号

お問い合わせ

外部リンク