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綾瀬版 公開:2018年5月11日 エリアトップへ

〈第42回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる42 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2018年5月11日

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 高重、鎌倉の府に出仕の往き還り、ふと今、鎌倉の政界に権力を有する氏族、有力の氏族、北条氏に距離を置く氏族達の様々な工夫を凝らした活動や情報が、錯綜して流れているのを察知して慄然とするも、流石に嘗て戦場往来の武将。鎌倉を一歩離れると、帰路の風景を観賞する余裕があった。

 ここ相模国は気候風土に恵まれ渋谷荘も起伏に富んではいたが、父・重国の努力が実り、宏大な領地を有し、沃地にも恵まれていた。兄・光重と父の遺訓を守り、一族郎党団結は固かった。今、鎌倉の府は天然の要害(丘陵)に囲まれ、頼朝の父祖達(前九年の役・後三年の役)によって地均(じなら)しされ、この地を源氏の武士の府を樹立する地と、石橋山で旗上げした時よりの願いだった。頼朝、渾身の父祖の想いを込めた鎌倉の府の創業だった。攻防自在の要塞都市を形成し、極楽坂をはじめ切通しと坂が一体となった主要七口が設けられ、また関東・中部に主要道を設け、鎌倉に一朝事(いっちょうこと)あれば御家人達駆けつける事になっていた。正に鎌倉は難攻不落の要塞都市となっていた。

 高重も出仕の度に、東国の都・鎌倉に、今この時を生きている事を、江之島より見る夕日、江之島より遠望する富士、不覚にも胸が熱くなり、自身の卑小さを愧(は)じた。今、去来するのは、北条義時の傍若無人の振舞。今では鎌倉の府に於いて重きを示しつつあった尼将軍・政子の冷静沈着の言動。政子は女性であり、また母親であった。そして頼朝の妻だった。義時とは見解・指向に違いがあった。ましてや我が子、頼家・実朝、幕府の運営を合議制にしていたとはいえ、頼家を何かと正当な口実を設け、22歳の若い生命を断たれ、今また、三代将軍・実朝、後鳥羽上皇との交誼(こうぎ)もあり、辛うじて傀儡将軍として存在していたが、如何に北条家の権力指向の為、そして鎌倉の府の将来の為とはいえ、母として看過出来ない尼将軍となっていた。また尼将軍・政子に心を寄せてくれる御家人達も存在した。

 政子が鎌倉の政界で義時に拮抗出来たのは、姉と弟であった事が幸運だったのか!?頼朝、石橋山の旗上げの時、兄・宗時の戦死以来、義時は政子を大事にしてくれる弟となっていたのだが…。二代執権・義時に正面から意見具申してくれる政子の存在は、意味のある事だった。

 その頃、高重の身辺に、五感に、不穏な空気が…。未だ気配を感じていなかったのか!?

【文・前田幸生】
 

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