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綾瀬版 公開:2018年7月6日 エリアトップへ

〈第44回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる43 あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2018年7月6日

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 今、高重、進退極まり坂東の鎌倉の武士としてのけじめを、つけねばならぬ立場にあった。首謀者・泉親衡、事件の正当性の理非は別として、武人らしく首謀者として出頭して、自説を堂々と陳述して、幕府に、世に問うべきと高重、兄・光重、一族の主立った者達と深更迄、悲憤慷慨(ひふんこうがい)が続き、父・重国在世なりせばいかなる対応をしていくだろうかと論じ合った…が、今は厳しい現実に対応していかねばならぬ高重、今改めて渋谷氏一族の惣領として己の決意を述べ、後事を託した。

 一方、和田義盛、鎌倉幕府にその人有りと知られた桓武平氏、三浦一族三浦義明の孫で、三浦家の嫡流だった。頼朝石橋山旗上げの折、一番乗りが三浦一族の強い願いだったが、天が味方せず、頼朝惨敗の要因となり湯河原の山中を彷徨。椙山(すぎやま)の洞窟での匿い。真鶴の岩海岸から安房(あわ)への脱出。土肥(とい)実平、梶原景時等の働き。数々の逸話が生まれ、三浦一族、鎌倉幕府の枢要の地位を占めながら、忸怩(じくじ)たる思いが北条家の後塵を拝してきた一因だった。

 今、和田義盛、息子の義直・義重、甥の胤長(たねなが)等が事件に関与。義盛、領地上総伊北(かずさいほく)の荘より急遽、一族の主立った者達を引き連れ駆けつけた。三代将軍・実朝の許に直接談判。これ迄の功績に免じて容赦を乞うた。実朝、詩歌(しいか)に長じ後鳥羽上皇(82代)とも親交があったと言われていたが、政治の実権を持っていなかった為、義盛の嘆願に理解を示してくれたが実朝の言葉の裏に政子・義時の大きな存在を感じた。

 義盛の二人の息子は赦されたが、胤長のみ縄目の辱めを受け、奥州への流刑となる。義盛、納得出来なかった事はその後、胤長の領地は召し上げとなり、その領地を私的に分配してしまった事だった。思えば義盛、此の度の事件も心の中で整理がつかず懊悩した。事件が計画され発覚した事を好機とし、北条家へ好意を示さない御家人達の勢力を削ぐ機会と捉えたか…!?又は意図していた深謀遠慮だったのか…!?頼朝亡き後、その雰囲気は察していたが…。義盛、今は一族一門の命運を賭けて立つ時が来ていた‼鎌倉の府も騒然としていたが今は衆目、固唾を呑み粛然とした空気が流れていた。

 高重、今は友誼(ゆうぎ)に殉ずる決断がついていた。一族一党の繁栄、領土の保全を願えば友誼に背き、姻戚の横山氏・和田氏等と断絶を覚悟しなければならなかったが…。高重、十分呻吟(しんぎん)し、今は明鏡止水の心境だった。時に健保元年(1213年)5月2日の事だった。

     【文・前田幸生】
 

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