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港北区 社会

公開日:2024.08.15

名古屋全体が焼野原
「懐中電灯つけるな」
日吉本町在住 水野次郎さん

 日吉本町在住の水野次郎さん(92)は、1931年名古屋で生まれ育った。戦時中に出征することはなかったが、学校では防空演習や潜水のような戦争のための授業を受けていた。小学5年・6年の頃は海洋少年団に所属。夏の1カ月間は三重県に行き、手旗信号やモールス信号、オール漕ぎなどの軍事教練を行っていた。

 4人きょうだいの3番目。父は国家総動員法により九州で炭鉱労働し、母は学校教諭として働いていた。長兄は名古屋大学理学部の研究室員として助手を務め、長姉はバスの車掌だった。

実家燃える

 小学生の時、名古屋空襲が起こった。爆弾が投下された時は実家が半壊、B29で焼夷弾が落とされた時は燃やされた。家の近くに陸軍施設があり、そこに爆弾が落とされた時は恐怖を感じたという。「家や学校、名古屋城も。名古屋全体が燃えて辺り一面焼け野原だった」。商店街の残っていた離れや6畳くらいの防空壕で暮らしながら学校に通った。

 警報音が鳴り響いた時は、始めは「日本はどうなるのか」という気持ちがあったが、次第に聞き慣れていき「またか」と感覚がまひするようになっていった。

 水野さんの地域では爆弾の投下によって亡くなった人が多く、当時町内会役員を務めていた父と中学生だった姉は、死体の処理を手伝っていた。小学生だった水野さんには精神的ダメージが大きいだろうと、父からは「懐中電灯をつけるな」と言われるほど周囲に死体が散乱していたという。「においも含めて、その光景は今でも忘れられない」

「必ず勝つ」

 台湾や朝鮮、ドイツに勝利したことや学校教育の影響で、「日本は神の国。日本の飛行機が落ちてきて”これはダメだ”という時でも神風が吹けば大丈夫。もし戦争に行ったとしても必ず勝つと思っていた」と話す。

 中学1年の夏に終戦。国内で軍事訓練を受けていた中学2・3年の先輩たちが秋から冬にかけて300〜400人戻ってきた。多くの命が奪われ「昭和20年の沖縄戦時に戦争をやめていれば」と振り返る。

 水野さんは現在、「朝食会」の代表として月に1度程、地域の名士らとより良い社会を目指し各回テーマを持って議論を交わしている。「勝っても負けても戦争はだめ。兵器には石炭や石油が必要なものもあり、産業革命以降は二酸化炭素で空気も悪くなるなど悪影響が多い。自然のままに生活していれば平和に過ごせるのでは」と語る。

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