第79話〜旧益田家とモチの木〜 とつか歴史探訪
不動坂交差点東側に位置していた益田家は、"護良親王が自由の身になられたとき京都にお連れする役目を仰せつかっていたが、親王が殺害されたのでそれが叶わず、この地に留まり宮の霊をお守りすることになった"・・と伝わります。国道から正面に邸宅があり、右手のコンクリート壁には、護良親王が潜伏した吉野山から天辻峠までの地形断面図が埋め込まれ描かれており、護良親王への並々ならぬ思い入れが窺えました。
庭のモチの木は益田家の先祖が、南北朝時代の南朝の勢力分野である吉野の黒滝村付近から苗木を持ってきて植えたとか、樹齢は定かではありませんが300年とも600年とも伝わり、モチの木の北限とも言われます。東日本には少ないこのモチの木は1981年県指定天然記念物に、かながわの名木100選にも入っていた堂々たるもので「相模モチ」とも呼ばれました。2本あり、1本は高さ18m・根回り3・1m、その脇には高さ19m・根回り4・9mのいずれも雌株でした。
しかし、枝が危ないなどからか2017年県教委の許可なしに1本の一部を切ってしまい県文化財保護条例違反のトラブルとなりました。その後2018年庭の隅に移植されましたが、2019年4月ほぼ全ての葉が落ち枯死と判断されました、枯死と移植の関係は分らないとされています。モチの木は地元町内会で子孫保存の取り組みもされているようですが、大切な文化財保護の難しさを感じます。益田家の跡地は水素ステーションに様変わりし、当時の面影はありません。
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4月18日