寄稿 戦争体験記〜東京大空襲〜 語り継ぐ戦争の記憶【7】 港南区遺族会 新井 淑雄
夏休みは8月20日までと短いものの、田植休みと稲刈休みがあり、農繁期は朝早く登校し、黒板に「早引け」と書けば農家の子どもは欠席になりませんでした。
終戦の放送もラジオがないため知らず、大人たちの会話から知りましたが、東京大空襲を経験したことで、戦争には勝てないという実感を覚えています。空襲の下では熱風しか吹かず、都合よく神風が吹くとは思えませんでした。
夏休みの宿題に、軍への供出用として3年生は縄を40束作るように云われました。藁に水気を含ませながら叩いて柔らかくし、両手をすり合わせて縄にしていきます。自分の身長の長さを1尋(ひろ)といい、40尋で束にします。私は「うちは農家ではなく、貧乏だから藁も買えず、縄がつくれません」と作文にしたものの、終戦となり供出は中止です。
木小屋生活も半年余りが経ち、終戦で生活も落ち着き、村にあるお寺へ転居しました。第37代になる住職も着任3年目で50軒程の檀家では生活ができず、当時は多かったのですが、小学校の先生を兼ねていました。寺の10畳間が本堂を含めて6室あり檀家の縁者である東京からの罹災者が25人ほど入居しておりました。
井戸は共同、トイレは個々に杉林の中に造り、風呂は縁者宅のもらい風呂です。100m先にバス停があり、村内のよろず屋のような、たばこ屋があり、祖母の妹が女主人でした。風呂も買いものもたばこ屋で、雑用や店番を手伝いました。
父の死を知る
昭和22年、父が前年2月に満州からソ連へ抑留され、急性肺炎で死亡したことが2人の戦友から知らされ、公報も入りました。母と父の友人と同行して芝大門にある増上寺で遺骨を受け取りました。村うちでも、隣組の人たちも整列して迎えてもらい、お寺の傍らに新設してもらった墓地に納骨をしました。
(続く)
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