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保土ケ谷区 コラム

公開日:2026.10.08

「保土ケ谷区史」と歩く歴史の散歩道 第11回 大日本麦酒と日本硝子:横浜ビジネスパーク 寄稿 金子宣治

  • 写真1:大日本麦酒付近(横浜開港資料館所蔵)

    写真1:大日本麦酒付近(横浜開港資料館所蔵)

  • 写真2:昭和50年頃の日本硝子横浜工場(『保土ケ谷ものがたり』より)

    写真2:昭和50年頃の日本硝子横浜工場(『保土ケ谷ものがたり』より)

 写真1は、今から100年以上前の横浜ビジネスパークの様子です。写っているのは大日本麦酒(ビール)の工場で、明治40(1907)年からビールや清涼飲料水リボンシトロンを製造し、昭和10(1935)年頃まで続きました。桜ケ丘への坂道は「ビール坂」と呼ばれ、名残をとどめています。この芝ケ谷(現・神戸町)の斜面からの湧水は、地域の人々の貴重な生活用水だったほか、同工場のリボンシトロンなどの原料になっていました。

 明治26(1893)年、ビールの製造販売をしていた東京麦酒が保土ケ谷の神戸に移転し、同38(1905)年、東京麦酒新株式会社と社名を改めました。明治40(1907)年、これを大日本麦酒が買収して、ビールと清涼飲料水リボンシトロンを製造していました。

 大正5(1916)年6月に同じ神戸の隣地に日本硝子(ガラス)工業株式会社保土ケ谷工場が設立され、ビール壜、サイダー壜などを自動製壜機で生産していました。我が国初と言われる王冠栓も製造されました。

 なお、大日本麦酒は大正9(1920)年に日本硝子工業と合併し、同工場は日本最大の製壜工場として発展しました。昭和11(1936)年、大日本麦酒より分離独立し、日本硝子株式会社横浜工場となり、このころ、清涼飲料水の製造もやめています。

 付近の星川から仏向にかけて、壜の主要原料である珪砂を採取し、戦前まで星川小学校の裏山付近からトロッコの引き込み線で工場へ搬入していました。また、広い工場敷地には空壜を台形に積み並べた山と、再生する割れた空壜の山が幾つもあった光景を覚えていらっしゃる方も多いのではないでしょうか?写真2は、昭和50年頃の日本硝子横浜工場の様子です。

 昭和60(1985)年、日本硝子は保土ケ谷での操業を停止し、埼玉県に移転しました。土地は、野村不動産により「横浜ビジネス・パーク」として再開発され、現在の姿となりました。

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