神奈川区 社会
公開日:2025.09.11
満州引き揚げ、5歳の記憶
三ッ沢下町在住 関公子さん(84)
昭和16年、関公子さんは満州で生まれた。日本の敗戦を告げた玉音放送の記憶はない。終戦を迎えたのは、まだ4歳の時だった。しかし、母が着物に使う腰紐にびっしりとお札を丸めて詰めていた姿から、「親はもう負けるとわかっていたのだろう」と推し量る。
家族と共に日本へ向かう引き揚げ船に乗ったのは、終戦から1年後の夏のこと。その間は、母が作った麦芽糖の飴を3歳上の姉と一緒に売り回っていたと聞かされている。
引き揚げの道中は、家族にとっても苦難の連続だった。奉天から港のある葫蘆島を目指す中、警察の幹部で指名手配されていた父は、検問で見つかり絶体絶命の危機に陥る。しかし、父を救ったのは、かつての中国人の部下だった。父の顔を見た彼は、「この男は違う」と証言し、一家の命を救った。
乗ったのは氷川丸のような客船ではなく、薄暗い船底で多くの人が身を寄せ合う貨物船だった。周りに人が大勢いることが嬉しくて走り回っていた幼い子が、病気の人の枕元にあった水筒を倒し、ひどく叱られていた様子を覚えている。
最も鮮烈な記憶は、船の後方の蓋が開かれ、白い波が床まで押し寄せる光景。「子どもだから、大人が集まっているのが嬉しくて見に行っただけ。後から『あれは亡くなった人を流していたのよ』と教えられました」。あと1日もあれば日本の土を踏めたはずの命が、静かに海へ消えていった。戦争の悲劇は、まだ幼い関さんのすぐそばにあった。
無事に長崎・佐世保港へ着いたものの、今度は幼い妹が日本脳炎にり患。両親が病院に付きっきりの間、姉と体育館のような場所で待った日々。父が持ってきたビワの味は覚えていないが、「種ばかりで食べる所もなかった」ことだけが記憶に残っている。
それからは父の実家がある茨城へ渡った。小学校では「引き揚げ者」と呼ばれたこともあったが、「子どもは親と一緒ならどうってことないんです。でも母は大変だったと思います」と振り返る。東京で育ち、終戦までは満州で不自由ない暮らしをしていた母が、見知らぬ茨城の農村で真っ黒になって働いた苦労は計り知れない。
結婚後は20代後半で大学に通い、古代中国の思想を学んだ。留学を経験した娘には「相手の国と日本の歴史を知っておくことが大事」と伝えた。「若い人には、とにかく歴史を知り、そこから学んでほしい」。関さんは静かに、しかし強いまなざしで語った。
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