宮前区 社会
公開日:2025.07.18
戦後80年 戦禍の記憶【8】 高津区北見方在住 吉田 豊さん(92)
教師の変節に呆れ、教師に
「日本は負ける」が言えず
「アメリカは技術も文化も進んだすごい国。そんな国に戦争を仕掛けても、日本が勝つわけなかった」--。終戦後、12歳の時に見た教師の変節ぶりに、開いた口が塞がらなかった。「あれほどアメリカを敵視するよう言い聞かせていた教師の言葉とは思えなかった。言葉巧みに教え子を戦地に送り出したというのに、戦争が終わった途端にこれか」と、理解できなかった。
戦時中通っていた高津国民学校(現・高津小学校)では、敵兵に見立てたわら人形に竹槍を突き立てたり、爆弾を持ち敵軍の戦車へ特攻する想定の訓練もしていた。「当時は恐ろしいことをしているということも分からず、これが当たり前のことだと考え、日本の勝利を聞くたびに大喜びしていました」。祖父の代から続く瓦屋も、焼く時に出る煙が「敵機の標的になる」と許されず、家業は開店休業状態に。それでも「日本が勝つ」と信じ、自宅の敷地で野菜を育て、飢えをしのいだ。
小学校を卒業し、県立川崎工業学校(現・川崎工科高校)に入学する日の前日に空襲があり、最寄りの駅から電車が使えなくなったため、入学式に歩いて向かった。この時「本土が攻撃されるほどに追い詰められているなら、日本が勝っているはずがない」と感じたが、戦争についてネガティブな発言をすれば憲兵に捕まる可能性があり、口にすることはできなかった。「言葉にできなかっただけで、みんなも同じことを思っていたのだと思う」
考えを発することを禁じられ、情報で目を欺かれてきた戦時中の教育への疑問。それが、人生の選択に強く影響した。家業を継がずに、小学校教師の道を選んだ。教え子たちには一貫して「教師の言葉も鵜呑みにするのではなく、目の前のことに疑問を持ち、自分の頭で考えることが大切だ」と伝え続けた。
あれから80年経った今も、その言葉とともに「教育」と「言論の自由」の大切さを胸に刻む。「自由に考え、発言できるのは幸せなこと」と今の日本の社会を一定評価しつつ、言論が統制され、体制を批判した途端に拘束される他国の話を聞くと、やるせない思いを抱く。「かつて経験した戦時下を思い出してしまう」
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今年で戦後80年。体験者が年々減少し、戦争の記憶が風化しつつある。当事者の記憶を後世に残すとともに平和の意義について考える。不定期で連載。
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