太平洋戦争の終戦から今年で73年。川崎でも73年前の4月15日、市内人口の約3分の1の10万人を超える羅災者が出た川崎大空襲があった。そして、高津でも空襲が何度もあった。末長で生まれ育ち、当時小学生だった関口弘さん(80)に話を聞いた。
3日に一度、空襲警報が
「当時、この周辺には日本工学という軍需工場が広くあってね。だから狙われたんだろうね」
記憶する限りで一番最初に爆弾が落ちたのは1943(昭和18)年。日本工学を狙った爆弾が、今の第三京浜川崎インター辺りに落ちた。「それからは3日に1度は空襲警報が鳴るくらい、頻繁に空襲があった」。
末長周辺でも寺や民家が焼夷弾で焼け、爆弾の直撃を受けた家も数多くあった。近所の住民が機銃掃射に襲われ、薬医門の岡先生のところへ皆で担いで運んだこともあるという。
「一番印象に残っているのは、家のすぐ裏手の山に艦載機のグラマンが落ちたことかな。炎上はしなかったので、その後しばらくは登下校の際に飛行機にぶらさがったりして遊んでいたよ」。不発だった焼夷弾のリボンを近所の人と鋏で切って草履の鼻緒にしたこともあった。「使えるものは何でも使ったんだよ、あの時分はね」と笑う。
「でも、戦争が終わって、子どもながらに『やっとこれでゆっくり眠れる』と思った。戦争は生活の全てを変えてしまう。二度と起こしてはならないね」。
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