川崎区・幸区 社会
公開日:2025.09.05
戦後80年 戦禍の記憶【10】川崎区在住 石 日分(ソクイルブン)さん(94)
子ども心にも感じた差別
「ヘイトが戦争招く」
「引っ込み思案で、周りの友だちより10センチほど背が高いのが嫌だった。朝鮮人ということにも劣等感を抱いていた」と子ども時代を振り返る。
1931年に長崎県諫早で生まれた在日コリアン2世。韓国出身の父親は渡日後、建設・土木作業現場をまとめる親方だった。そんな父親のもとには、働く場を求めてやってきた同郷の人たちが集まった。飯場として、常に20〜30人の朝鮮人と共同生活を送り、工事が終わるたびに新しい仕事場へと移った。佐賀や大分、福岡など九州を転々とし、小学校4年生までに3回転校した。日本の植民地支配による「創氏改名」で当時の名前は石原桃子。本名を名乗るようになったのはずっと後年になってからだ。
朝鮮人が徴用などでやってきた時代、小学校1クラス50〜60人の中に5〜6人の朝鮮人の子どもがいた。あまり日本語が話せない子は、いじめの対象となっていた。日本人とけんかになっても公平に叱らない教師もおり「子ども心に差別を受けていることを感じた」。キムチ入りの弁当は「臭い」と言われた。特に冬場はストーブの上に弁当を置いて温めていたため、「いくら食べ慣れているとはいってもあの臭いは強烈だった。日の丸弁当がうらやましかった。だけど母親に言いだすこともできないし、梅干を手に入れる方法もわからなかった」。
足が速く、運動会の選手に選ばれたこともある。その翌日、選考から漏れた子の姉に呼び出され「新入りのくせに、朝鮮人のくせに」と5、6人に囲まれて蹴られた。家庭訪問では朝鮮人集落に住んでいたことで担任が訪れなかったこともある。仲良くしていた日本人の友だちの誕生会に誘われたのは6年生の時。「いつも可愛い洋服を着ている子でした。初めて日本の家庭に遊びに行きましたが、その子のお母さんからジロジロとみられていました」
一方で分け隔てなく接し、お使いや大事な用事も任された教師は忘れられない。
紛争や戦争が絶えない現在。日本でもヘイトスピーチが大きな社会問題となっている。「人種差別が戦争を招いている。差別に対し一人ひとりが良識を持って団結しなければ」と話す。
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今年で戦後80年。体験者が年々減少し、戦争の記憶が風化しつつある。当事者の記憶を後世に残すとともに平和の意義について考える。不定期で連載。
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