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川崎区・幸区 社会

公開日:2025.09.26

戦後80年 戦禍の記憶【13】 高津区溝口在住 鈴木穆さん(88)
祖母の胸で、震え止まらず
「弾丸は小川に突き刺さった」

  • 戦中の記憶を語ってくれた鈴木さん

 未だに時折、悪夢を見るほど、太平洋戦争の記憶は深く脳裏に刻まれている。

 1943年に高津国民学校(現・川崎市立高津小学校)に入学。戦局が厳しくなり、1944年8月に3年生以上の集団強制疎開が始まった。地方の親戚や知り合いの家に疎開できる子どもを除き、神奈川県中郡高部屋村日向の浄発願寺(3、4年生)と、石雲寺(5、6年生)に集団疎開した。当日、校舎の廊下で集団疎開に出発する同級生を見送った後、上の兄が疎開していた母の実家である港北区網島に縁故疎開した。だが疎開したその日の夜、近くの軍事工場安立電気を狙った爆弾が落ちた。「物凄い爆風と火が裏山を覆い、襲い掛かってきた。真っ赤になった爆風が障子をなぎ倒して私をめがけて飛んできて、まるで地獄絵図を見るようだった」。

 どうにか防空壕に飛び込んだものの震えが収まらず、祖母の胸に抱きかかえられながら、その祖母が懸命に唱える御題目をただ、聞いていた。

 後に発行された『港北区史』に「戦争と新田地区」の項で「太平洋戦争で戦災を蒙った農家が新田地区でもかなりある。新吉田は、六間坂に爆弾が落ち死者が出た。板倉清次、八城三郎、藤沢泰晴家等で焼夷弾で焼かれた家である」とあり、その日がまさに縁故疎開初日の夜でもあった。

 翌朝、兄と一緒に新田小学校に行ったが、校門をくぐった所で空襲警報が鳴り響き、帰宅を余儀なくされた。

 新田小からの帰路、兄と2人で鶴見川の土手を歩いている時、北上してきたグラマン戦闘機が「ダダダダッ」という大きな銃声と共に機銃掃射を行ってきた。とっさに近くの小川に飛び降りて避けたが「弾丸はビュンビュンと小川に突き刺さった」、そんな感覚があった。

 起き上がって前を見ると、グラマン戦闘機のパイロット米兵がこちらを振り返った顔があった。「もし、あの弾が当たっていたら、2人とも命がなかっただろう」と直感した。

 それから80年。生きながらえた今こそ声を大にして叫びたいことがある。「二度と戦争はすべきでない。如何なる理由があろうとも、戦争は反対である」と。

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今年で戦後80年。体験者が年々減少し、戦争の記憶が風化しつつある。当事者の記憶を後世に残すとともに平和の意義について考える。不定期で連載。

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