多摩 社会
公開日:2025.08.07
助けてくれた母に感謝
八王子市鹿島在住 金木節子さん
金木節子さん(87)は、幼いころ、台東区本所の厩橋近くに住んでいた。漆職人だった父は35歳で亡くなり、母親一人で、一つ上の兄と妹や弟、金木さんの4人を育てていた。記憶に一番残っているのが3月10日の未明に発生した東京大空襲だった。サイレンが鳴り響き、空襲警報が発令されると、母親が4人を連れて防空壕に向かい逃げ出した。
金木さんの記憶では、一度は防空壕に入ったものの「ここにいたら危ない」と判断し、近所の知り合いたちと、ライオン株式会社(墨田区)の倉庫に逃げ込んだ。さらに、迫りくる空襲の炎を避けようと倉庫のガラス窓をやぶり2階から飛び降ると、命からがら隅田川までたどりついた。
金木さんは「母親が末っ子の息子を背負って、子どもたちを一生懸命連れ出そうとしてくれていたのを思い出し感謝している」と振り返る。後から聞いた話では、熱さに耐え切れず川に飛び込んだ人の多くは亡くなったという。
5日後、関東大震災で被害が大きかった被服廠跡にできた東京都慰霊堂に向かい、炊き出しなどの支援を得ることができた。慰霊堂まで逃げる途中、黒こげになった人の形の上をまたいで歩いたことが記憶に残っているという。その後は、永代橋のわきにあった倉庫で暮らした。
生きるのが精一杯
食料が無くて遠いところに行っては母親の着物と食料の物々交換で空腹をしのいだ。おにぎりをボストンバッグに詰めて汽車に乗っていたこともあったという。必死に生活を送る中、終戦を迎えていた。金木さんは「生きるのが精一杯でいつのまにか戦争が終わっていた」と話す。
終戦後は、永代橋のところまでアメリカの大きな船がやって来て、近くにはダンスホールができて外国人が多く集まっていたという。
その後、母親が亡くなり家族4人は、亀戸に住んでいた叔母のところで生活を始めた。叔母の遺言で、8月15日の終戦の日には慰霊堂に行き供養を行っているという。最近は足も悪くなり、供養に行けてなかったというが、「戦後から80年の節目。今年が最後になるかなと思い、近くに住む弟家族に連れて行ってもらう予定です」と語る。
金木さんは「戦争がどれほど残酷なものか、若い子どもたちに体験させてはいけない。戦争は二度と起こしてはいけない」と力をこめる。
数年前に主人を失くした金木さんは、絵を描くことを楽しみにしており、近所の人たちと話をしながら平和の大切さをかみしめているという。
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