海老名・座間・綾瀬 社会
公開日:2025.08.15
父は最期に「大きくなれ」と
海老名市勝瀬 豊敦子さん(84)
自宅は長崎市の爆心地から約3・3Kmの高台にあった。1945年8月9日午前11時2分、真夏の太陽の下縁側で遊んでいた敦子さんは「B29が来たぞ」と知らされ、ちょうど防空壕(ごう)に入っていた。爆発の後、外に出るとまちは焼け、煙や燃えかすが空に舞い上がり、暗かった。上半身を真っ赤にやけどした知人が目に入った。
母は乳飲み子の妹をおんぶして出かけ、働きに出ていた父・吉雄さんを探した。救護施設でようやく発見し、担架がわりの戸板に乗せて連れて帰ったが21日に父の容体は悪化。体に紫色の斑点が出始め、しゃっくりが止まらなくなり、多量の血を吐いて息を引き取った。43歳だった。最期に枕元に子どもたちを集め、妹のクミコさんを抱いて「大きくなれ、バンザイ」と言い残した。
決して怒ることがなかった父。縁側で耳掃除をしてくれた父のぬくもりが忘れられない。高台からまちを見ると火葬の火がいくつもともり、次は自分かもしれないと不安が絶えなかった。1年後、クミコさんの体にも同じ紫色の斑点が現れ、苦しみ始め、やがて息を引き取った。
「伝える役目」胸に
5人の子どもたちに母がよく語ったのは「父ちゃんが草場の影で守っとらすけん、がんばれ」。高校進学を諦めて美容師となり、20歳で独立。家族を助け母を喜ばせたい一心で働いたが、貧血に苦しめられた。被爆のために結婚できないとも思った。その後放射線影響研究所で働いていた満夫さん(故人)と出会い、結婚。身の上について理解があった。子育てを終えた後、娘の子育てを手伝うため62歳で神奈川に転居した。
それまで被爆について語ることはなかったが、被爆者の会に入り海老名市などの小中学校を回るようになった。「私には伝える役目がある」と体験を語りつつ、涙を抑えきれないときも。原爆を落としたアメリカをどう思うか聞かれ「恨みは自分が不幸になるばかり」と答えた。「繰り返してはならない。命のバトンをつないでほしい」。伝え続けた日々をたくさんの写真や講演記録が物語っている。
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