海老名・座間・綾瀬 社会
公開日:2025.08.15
「みんな気がついていた」
綾瀬市落合北 加藤貞男さん(89)
厚木海軍飛行場のある「綾瀬」で育った加藤さんは戦時中、綾瀬国民学校本校に通っていた。小学3年生の時、授業中に後ろの方から急に「バーン」という大きな爆発音を聞いた。「音の方向に走っていくと、そこには燃えている校舎とバラバラになった戦闘機があった。周囲にはパイロットの血肉が飛び散っていた」
終戦に向かう日本軍は航空燃料不足が著しいとされ、足しにしようと学校周辺では松に傷をつけて松ヤニを集めていたという。「燃料が足りない上に、機体はボロい。まともに飛ぶはずもなく、当時の綾瀬では墜落が相次いだ」と回顧する。
校内にあった小山の下には大きな防空壕(ごう)があった。飛行場の兵隊は入れ替わり立ち替わり壕を掘っており、町のいたるところに身を守る壕があった。空襲警報が鳴るたびに授業が中断され、帰宅や避難を余儀なくされた。空を見上げると、東京や横浜がある東に向かって米軍機のB29が悠々と飛行していた。
日本軍が高射砲を撃つも、米軍機には届かない。そんな光景をたびたび目にした。「子ども目線でも大勢は決していると思ったが、ラジオから流れるのは日本軍が優勢だという情報ばかり。みんなうそだと気がついていたが、口にできる空気ではなかった」
飢えの苦しみ
苦しかったのは食糧不足だった。家は農家だったが、育てた米は全て軍に供出し、白米を食べることは夢のまた夢だった。主食はサツマイモで、たまにアワが食べられる状況。麦飯を食べられたときは最高の気分だった。
飢えをしのぐため、蓼川の魚や道端の野草など、食べられるものは何でも食べた。「よこせ」の一言で兵隊に差し出すこともあったという。当時「洋セリ」と呼ばれたクレソンや敵国の名が入るアメリカザリガニには「毒がある」という出所不明のうわさが流れた。「今思うと、食べられると知っていた人が流布したんだろう」とも思う。
「当時はみな疲れ切っていた。いつの時代でも、戦争をしたら食うに困ることになる。戦争なんてやるもんじゃない」
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