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海老名・座間・綾瀬 社会

公開日:2025.08.15

空襲から逃れ、どぶの中へ
海老名市国分寺台 辻里子さん(95)

  • 辻さんと、大切にする母と妹2人の写真

 一夜の空襲が、自宅も街も焼き尽くした。終戦の5カ月前、米軍が無数の焼夷弾(しょういだん)を落とした東京大空襲である。

 里子さんは中学2年生だった。親は江東区(当時は城東区)で工場を営み、勤労奉仕の日々で、勉強の機会はなかった。

 1945年3月9日夜、里子さんは警戒警報で目覚め、妹の隆子さん(4)と朋子さん(3)ら家族と工場の地下室へ逃げた。この時期は空襲が頻繁になり、この夜も同様に避難していると、しばらくして消火活動から父が戻った。「こんな所にいたら蒸し焼きになるぞ」。促されて地下室から出ると家々が燃えていた。母とともに幼い2人をおんぶしてその場から駆け出した。火に追われ、熱から逃げるため、どぶに飛び込んだ。

 当時は3月初旬で、水の冷たさが体にしみこむ。川底は砂地で足はずぶずぶと沈む。炎は頭上を覆う勢いで「早く終わって」と願い、耐えるしかなかった。妹2人から「寒いよ」「帰ろうよ」という声が聞こえた。

 夜明けに炎が収まり、泥から引き上げられて目に入ったのは逃げられず命を落とした大勢の人々。「思い出すのもつらい。様々な姿で重なり合い、真っ黒でした」

妹2人を失う

 その後、隆子さんと朋子さんの具合が悪くなった。顔が発熱したようになって、相次いで息を引き取った。凍えてしまったのか、肺炎だったのか原因は分からない。亡くなった2人を抱いて帰る家もなく、父は2人をトタンの上に寝かせ、荼毘(だび)に付した。骨を入れた空き缶を、父はベルトに結びつけて歩きだした。

 錦糸町駅から親族のいる静岡に向かった。妹たちは里子さんを「お姉ちゃん」と慕い、よく一緒に亀戸天神に出かけた。参道でくず餅を食べさせると大喜びだった。悲しみの中、母が語ったのは「はぐれて亡くなった人もいる。最後を看取れただけでもよかった」

 結婚後は都内に暮らし、夫の勤務の関係で海老名に転居した。たまに夢の中で亡くなった人々の姿を見る。「戦争は一番してはいけないのに、今も続く。戦地の人々が気の毒で、耐え忍んだあの日を思い出します」

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