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座間 社会

公開日:2014.08.08

激動の時代を生きて
69年の歳月経て ―生き証人に聞く戦争体験

 太平洋戦争の終戦から、間もなく69年。語り手の減少が社会問題になる中、自身の体験を後世に残そうと活動する人たちがいる。本紙では終戦記念日を前に、2人の「生き証人」に当時の体験談を聞いた。

じっと、空襲に耐えた日々



 農作業の最中や授業中、皆が寝静まった深夜。敵機の接近を告げる警戒警報は、いつも突然鳴り響いた。



 座間で、空襲がより激しさを増したのは、終戦直前の1944年末。中津陸軍飛行場(愛甲郡愛川町)が特別攻撃隊の訓練基地に指定されたことで、同飛行場から座間上空を通過し、東京・横浜方面へと抜ける米軍機が急増したのだった。



 当時、座間国民学校(現・座間小)4年生だった佐藤章さん(78歳・四ツ谷)は、当時を振り返る。「戦闘機『P51』が頻繁にやってきて。パイロットの表情がわかるほどの低空飛行だった」――。姿を視認された住民は、機銃による狙い撃ちに遭った。「機銃掃射」だ。その都度必死で走り回り、稲穂の間や桑の木の根元などに転がり込んで、あがる息を必死でこらえた。



 幸い、佐藤さんの家族は被害を免れたが、入谷で乳飲み子を背負った母親が飛行機に追われ、赤ん坊だけが撃ち抜かれて亡くなった、といった酷く痛ましい話も数多く耳にした。



 山がなく、田畑が続く座間西部では、隠れる場所が限られていた。横穴を掘ることができる場所が少ないため、防空壕も、地面に穴を掘って板で蓋をしただけの簡易なものだった。「座間は50cm以上掘ると水が出るから、浅く広く掘って」。カモフラージュの藁をかぶせた板一枚を隔てた上空を敵機が飛ぶ中、空襲警報が解除されるのをひたすらに待つ日々が、終戦まで続いた。



終戦後も困窮



 戦後も、暫くは物資の不足が続いた。学用品も乏しく、芯がポキポキと折れる粗悪な鉛筆を使っており、わら半紙のざらざらとした表面に芯を取られてよく紙が破けた。「戦時中から、たまに座間大通りにあった醤油屋さんが瓶に貼るラベルを寄付してくれていて」。楕円形をした手のひらサイズのラベルの裏に、書いては消し書いては消し。何度も書き直して勉強した。



 そんな昔話を、口にすることも近年はめっきりと減った。「団塊の世代に話しても、通じない部分も多い。同世代の人は、もう数えるほどになってしまった」



 当時の様子を、佐藤さんは市教育委員会が発行する小冊子「座間むかしむかし」に同窓生らとともに綴っている。その思いを、こう語る。「戦争を知る人が減り、風化の一途を辿っている。二度と繰り返してはいけないということと、あの戦争を経て現代の平和があるということを、改めて後世に伝えたい」



全てが失われた、あの日



 「死は、今よりずっとずっと、近い存在だったのよ」。柔らかな語り口には、不思議な重みが感じられる。ひばりが丘在住の大江和子さん(84歳)は、青春時代を長崎市で過ごした。今から69年前の8月9日、大江さんは長崎市内の自宅で被ばくした。爆心地からは、2Kmほど。女学校3年生、14歳にして多くの友人・知人を失った。約40年前に座間に移り住み、原爆被災者の会「ひまわり会」の一員として、実体験を今に伝える。



 当時のことを話す気になったのは、つい最近。「自分の話をするのは、あまり褒められたことではないと、思っていたから。それでも体験者が年々減っていくのを見て、今残しておかないと、と思ったの」。体験を綴った「レクイエム(鎮魂曲)」を2002年に発表し、処女作にして北九州市自分史文学賞を受賞した。



 被ばく当時のことは、今でも鮮明に覚えている。「けたたましい警鐘が鳴ったと思ったら、一瞬にして黄色い光線に包まれたの。思わず目と耳を抑えてうずくまって、次の瞬間、紫色の光線が一面に」―。



 めちゃくちゃになった応接間を駆け、兄弟と防空壕に駆け込んだこと、その後暫く壕の中で過ごしたこと。まだ「原爆」の存在は知らず「何千もの爆弾が落とされた」と、身を震わせた。



 現実を目の当たりにしたのは、3日が経過してからだった。壕を訪ねてきた1つ年下の「クニ子ちゃん」を送り届けるため、爆心地に近い、浦上駅方面に出向いた時のことだ。途中で敵機に遭遇し、逃げながらも駅に近づくと、藁を被せられた亡骸が並べられていた。「性別も分からないほど上半身だけが黒く焦げた亡骸の横に、全く変わった様子のないじゃがいもが転がっていて」。それを目にした時、長崎を襲った「これまでとは違う何か」の恐ろしさを強く思い知らされた。



様々な別れ越え



 やがて戦争は終わり、気象台に就職。そこで最愛の人に出会うも、彼が戦地で患った結核によって永遠の別れを余儀なくされた。戦争が終わっても、その爪痕は残り続けた。「それでもう、一生結婚しないことを決めたの」



 その後教職に就き、東京白百合学園で教鞭を執った。市内で私立幼稚園を設立し、戦争が奪ったものを埋め合わせるかのように多くの人の縁に恵まれた。



 話しを終え、最後に一言付け足した。「本当に色々なことがあるけれど、人生って、楽しいものよ」

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