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座間 文化

公開日:2015.06.19

シリーズ 戦後70年
第3回
語り継ぐ「記録と記憶」
芹沢の地下壕に残る工廠の足跡

 市内栗原にある芹沢公園の一角に残る複数の地下壕。これらは第二次世界大戦中に置かれた「高座海軍工廠」地下工場の名残だ。壕は戦争の傷跡を今に伝えるべく、今も埋められずにひっそりとその姿を残す。



 海軍直属の軍用機工場、「高座海軍工廠」が現在のさがみ野駅付近一帯に作られたのは、終戦を間近に控えた1944年。戦局の傾きとともに敵の本土襲撃を恐れた海軍省が、防衛のために作らせたと伝えられる。工廠で製造されたのは、「雷電」などの局地戦闘機。内陸地にあたる座間では、海軍は艦船ではなく航空機だけを扱っていた。



 当初、高座海軍工廠は日本最大となる30万坪の用地に3万人の工員を集め、年間6千機を組み立てるという壮大な計画としてスタートしたが、敗戦へと傾く戦況に、規模縮小を余儀なくされた。



 物資の不足とともに、人員の確保も大きな課題となった。当時、日本の青年男性は殆ど戦場に動員され、全国的な人手不足に陥っていた。そんな中で、海軍が目を向けられたのが台湾の子どもたち。「十分な賃金と、上級学校の卒業資格がもらえる。帰国後は技術者として就職もできるだろう」――。そんな誘い文句によって、12歳から19歳までの台湾少年工約8000人だった。



 少年工たちは、誘い文句とは裏腹に過酷な生活と労働を強いられていた。勉強の時間は殆ど与えられず、空襲が来るたびに壕で身を寄せ合って、危機が過ぎるのを待つ日々を送っていた。それでも、終戦までの約1年間で、空襲などにより13人の少年たちが命を落とし、大和市内の善徳寺に祭られた。



総延長は1500m地下の軍事生産拠点



 芹沢公園に現存する地下壕は複数の穴が平行に掘られ、横道で繋げられるように掘られており、その総延長は1500mほどになることが確認されている。当時、壕の中には内部に3つの地下工場や地下物資倉庫、変電所に救護用ベッドを備えたものもあったと言われているが、終戦後に物資や機械類は全て撤収。詳細を確かめることはできなくなってしまった。



 その後、一部の壕はきのこ栽培に活用されたものの、湿気が強くカビが生えたことなどから断念。現在は入口をふさがれ、歴史の一ページを今に伝える存在として芹沢公園の一角にひっそりとたたずんでいる。

 

戦後70年 語り継ぐ戦争の記憶

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http://www.townnews.co.jp/postwar70.html

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