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鎌倉 コラム

公開日:2017.09.29

鎌倉のとっておき〈第29回〉
中世鎌倉の海外交流

  • 半僧坊から建長寺を望む

 日本中世の海外交流は、主に中国との貿易が中心であった。その事を裏付けるように、市内の発掘調査では中国宋時代の陶磁器や銭が多く出土している。当時の貿易港・和賀江嶋には数多くの品物が集まってきていたのであろう。



 そしてこのようなモノだけでなく、ヒトの交流も盛んであった。特に中国の仏教を伝えようとする僧侶達の往来が頻繁であった。



 鎌倉とゆかりの深い人物を取り上げてみると、日本から中国へ渡り修行をしてから帰国した寿福寺開山の栄西。そして北条時頼の招きで鎌倉へも来たことがある曹洞宗の開祖道元などが著名である。逆に大陸からは建長寺開山蘭渓道隆、円覚寺開山無学祖元、浄智寺開山に名を連ねる兀庵普寧(ごったんふねい)、大休正念(だいきゅうしょうねん)といった鎌倉五山に列する大寺院の高僧達がやってきた。



 蘭渓道隆が遺した「法語規則」(国宝)からは、厳しい大陸の教えが日本へ伝えられた事がわかる。また仏教以外にも渡来僧が持ち込んだものに、蘭渓道隆が広めたといわれる「けんちん汁」や、仏具が起源とされる「鎌倉彫」などがある。



 このように多くの僧侶達が最新の中国仏教と文化を我が国に伝えた。鎌倉時代後期に書かれた無住道暁の『雑談集』では、当時の鎌倉を「唐僧渡り唐国の如く、禪院の作法盛んなる事」と記し、さながら中国であるかの様に唐僧が多く、禅が隆盛していたと伝える。



 幸いなことに、鎌倉国宝館や建長寺・円覚寺の風入れなどで渡来僧達の墨蹟、偈頌、法衣などが一般公開され直に見る事ができる。これらの文化財から当時の海外交流を考えるのも、鎌倉の楽しみ方の一つである。



浮田定則

 

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