鎌倉 コラム
公開日:2017.11.03
玄海男生誕100年〈第3回〉
アメリカで迎えた黄金期
戦前に海を渡り、その実力と華麗なファイトスタイルでハリウッドスターからも人気を得た伝説のボクサーがかつて鎌倉にいました。11月で生誕100年。その足跡を辿ります。
玄さんは1937年8月20日、日本郵船の龍田丸に乗って、横浜港からハワイ経由でアメリカへ向かった。
当初はサンフランシスコとロサンゼルスで5〜6試合闘った後、その年の終わりには帰る予定だった。しかし実際には現地で人気が出たため2年間留まり、20試合を闘った。当時は日中戦争が勃発し、日本は国際社会で孤立を深める一方だった。当然、アメリカでの日本人に対する風当たりは厳しさを増していた。
そんな状況下での渡米。私が調べた限り、現地での戦績は負け越している。しかし、敵地における「不利な判定」が多くあったのだろう。当時の新聞をめくると、アメリカでの第4戦の判定負けについて地元紙が「ゲンは勝利を盗まれた」と大見出しをつけたり、他の試合では余りに不公平な判定に対し観衆が激怒し、翌日判定が覆ったこともあった。多くのボクシングファンの心を掴んだのだった。またジョージ・ラフトやロナルド・コールマン、メイ・ウェストといったハリウッドの大スターも玄さんのファンとなり、交流を持った。
玄さんの魅力はなんだったのか。私が思うに、高いボクシング技術はもちろん、グローブを胸に合わせてクルリと一回転する粋な挨拶や、クリンチで逃げずに打ち合うファイトスタイルが観る者の心をつかんだのだろう。玄さんの人生における黄金期だった。 田川永吉
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