玄海男生誕100年〈第4回〉 消えた玄さん石碑が残る
戦前に海を渡り、その実力と華麗なファイトスタイルでハリウッドスターからも人気を得た伝説のボクサーがかつて鎌倉にいました。11月で生誕100年。その足跡を辿ります。
渡米から2年後の1939年2月、玄さんは鎌倉丸で帰国した。その後、数試合闘ったものの、痛めていた左目がついに失明し引退を余儀なくされた。
ただ見えなくなった左目が災い転じて吉となり、戦地へ送られることはなかった。戦後は銀座でずいぶん暴れまわったらしい。その後、知り合いのツテを頼って鎌倉に居を構えた。
玄さんはたいそうモテた。51年、扇ガ谷に瀟洒なボクシングジムを建てることができたのも、パトロンがいたからだった。しかし89年の春、土地の賃貸関係の問題からかジムは突如として更地になった。跡地は現在、駐車場になっている。
その後、身体を壊し入院した玄さんとは連絡が途絶えた。ボクシング関係者の間で「玄さんが亡くなった」という噂が流れてきたが、どこに墓があるのかさえ誰も知らない。
ここ鎌倉で玄さんの痕跡をとどめるものがひとつだけある。下馬交差点近く、鎌倉大町踏切そばにある金子サトさんの石碑だ。この石碑は玄さんが建てた。若い頃、サトさんに世話になったと聞いた。
出自や時代の大きな流れに翻弄されながらも、戦前のアメリカで活躍した玄さん。生きていれば11月4日で100歳を迎えていた。
この機会に、鎌倉には伝説のボクサーがいたことを多くの人に知っていただければ幸いである。(完)
田川永吉
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2021年1月8日号