鎌倉のとっておき 〈第119回〉 すべての道は"鎌倉"に通ず(足立氏)
源頼朝亡き後、幕府の運営を合議して決めていた宿老13人の中に足立遠元(とおもと)がいた。
遠元は、頼朝の父、源義朝から実朝まで源氏4代に仕えたが、元々は武蔵国の一部(埼玉県から足立区周辺)を治める武士だった。1180年平氏討伐に挙兵した頼朝は「石橋山の戦い」(小田原市)で惨敗し、海路で安房(あわ)(千葉県)へ逃れた後、味方を増やして鎌倉入りを果たしたが、その立役者が遠元であった。
安房から鎌倉に至る途中の武蔵国には、豊島氏などの有力な武士も数々いたが、豊島氏と縁戚だった遠元は、彼に頼朝に味方するよう働きかけたという。そして豊島氏が合力すると他の武士も次々と頼朝軍に加わり大軍勢となったのである。
後に遠元は、誰よりも早く領地を安堵され、公文書の管理等を行う公文所(くもんじょ)=後に政所(まんどころ)の改組=の官僚として尽力し、頼朝亡き後も、宿老の一人として幕府運営を支えたのである。
遠元にはこんな逸話が残る。1159年義朝と平清盛が争った「平治の乱」で遠元は、戦場で矢も尽き刀も折れた武士から替えの太刀を所望された。遠元は、武功のライバルでもあったこの武士に家来の刀を渡し、その家来には、即座に敵将を討ち取り得た刀を手渡して戦わせたというのだ。
ちなみに遠元の子孫は後に丹波国(京都府等)に移り住んでおり、ある調査では丹波市青垣町の人口の約4割が足立の姓だったという。石塚裕之
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