茅ヶ崎・寒川 社会
公開日:2025.08.15
米軍の上陸作戦に備え小出に築かれた陣地
元小学校教諭 鴨志田聡さん(70)
「茅ヶ崎は『第2の沖縄』になっていたかもしれない」。そう話すのは鴨志田聡さん(70)だ。
鴨志田さんは茅ヶ崎市内で38年間、小学校の教諭を務めた。
巨大な「防空壕」発見
小学6年生を担任した時には、必ず「身近な戦争体験者に話を聞く」という課題を出していたという鴨志田さん。小出小の教諭をしていた1987年のある日、「子どもたちが防空壕で遊んでいる」と聞いて見に行ったところ、その大きさに驚いたという。
文教大学そばの山の中腹にある壕だったが、入ってみるとアリの巣のように枝分かれしていた。土地の持ち主は「旧日本車が陣地として掘ったもので、全長2Kmほど、10畳くらいの空間や素掘りの井戸もあった」と話した。
それからしばらくして、小学校を千葉の佐倉市から年配男性数人が訪れる。聞けば「終戦直前に召集され、小出村国民学校を兵舎として寝泊まりしながら学校裏の丘陵に軽機関銃陣地を構築していた」という。
その後、訪ねて来た仲間の1人、織本哲郎さんから、当時の様子を詳細に記した手紙が届いた。「陣地を築くための道具も不足していたため、織本さんたちは一度、佐倉の家に帰らされて鍬やシャベルなどを持ち寄るなど、戦争末期の状況がよくわかった」という。
茅ヶ崎が上陸地点に
「子どもたちが発見した壕も、日本軍が本土決戦のために築いたものかもしれない」。
鴨志田さんがその答えにたどり着いたのは、91年に開催された市史編さん事務局による写真展だった。
そこで知ったのが、第2次大戦末期に米軍が立案した日本本土上陸作戦「コロネット作戦」。同作戦は46年3月1日を決行日に、茅ヶ崎海岸に30万人の兵士が上陸、東京や横浜を制圧するというものだった。
「米軍の本土進攻作戦の主要上陸地点が茅ヶ崎海岸だったという事実に驚いた」という鴨志田さん。「文教大近くの大きな陣地はその備えとして築かれた中央陣地だった。日本の降伏が半年遅れていたら、茅ヶ崎は沖縄と同じような地上戦の舞台となっていたかもしれない」と、学習で活用できるよう教材化も行ってきた。
ただ、陣地跡もすでに切り崩されたり、入口がわからなくなった場所も多い。鴨志田さんは「後世に受け継ぐために、陣地跡の保存や記録が必要。また、教育の現場でもぜひ子どもたちに伝えていってほしい」と話している。
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