茅ヶ崎・寒川 社会
公開日:2025.08.15
終戦後に樺太から避難を経験
茅ヶ崎市柳島海岸在住 佐藤京子さん(93)
茅ヶ崎市柳島海岸在住の佐藤京子さん(93)は、戦争のため数奇な運命を辿ることになった。
札幌で生まれ、14歳まで当時日本の統治下にあった南樺太で過ごした佐藤さん。祖父は現地で郵便網の整備に尽力した人で、その祖父が営む郵便局がある、南部の大泊で母親や姉、妹とともに暮らしていた。
港町ということもあり、街には活気があったという。「今思うと洋風建築が立ち並ぶおしゃれな街並みでした。家の近くには教会があり、ポーランド人の神父に歌ってもらう讃美歌が大好きだった」と振り返る。
戦争が始まった後は空襲に備えて女学校の裏山に防空壕を掘ったり、バケツリレーの訓練などを行うことはあったが直接の戦火を感じることはなく、8月15日を迎えた。「玉音放送を聞きましたが意味は分からないまま。ただ、母は泣いていました」
ソ連の侵攻で混乱
しかし一家にとっての苦難はここから始まった。終戦間際に参戦したソ連が樺太にも侵攻。多くの住民が佐藤さんの住む街にも流れてきたという。「ほとんどの人が着の身着のままといった様子で状況が緊迫していることがわかりました。まずは私たち親子だけでも避難した方がいい、ということになって」8月23日、稚内へと渡る宗谷丸に乗り込んだ。「船は避難する人でぎっしり。私たちは最後の方だったので階段に座りました」。
約10時間の船旅の末に、稚内に到着。すぐに追いかけてくるはずだった祖父や叔母たちが日本に帰国するのは2年後になった。「私たちよりも先に北海道へと向かった船は、潜水艦に撃沈されたそうです。後に調べたら乗船名簿には多くの同級生や知人の名前がありました」
帰国後は顔見知りを頼り長野や東京へ。高校3年生の時、再び郵便局を開いていた祖父を頼って北海道へと渡った。
祖父に聞いた悲劇
再会した祖父から聞いた衝撃的な事実を佐藤さんは忘れることができない。1945年8月20日、樺太で9人の電話交換手が集団自決した真岡郵便電信局事件の際「これで最後ですさようなら」という電話を受けたというのだ。「祖父は『死んだらダメだ』と返したそうですが、その願いが届くことはありませんでした。自分とも年齢の近い女性たちが犠牲になったことにショックを受けました」
26歳で結婚後、2女を授かり約50年前に茅ヶ崎へと住まいを移した佐藤さん。「終戦後にも悲劇があったことを知ってもらい、二度とこのような思いをする人がいない世の中になってほしい。その一助になるのであれば、経験を伝えていきたい」と話している。
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