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茅ヶ崎・寒川 社会

公開日:2025.08.15

故郷から見た3度の空襲
 寒川町在住 佐藤博さん(91)

  • 当時住んでいた御所見村の写真を手にする佐藤さん

  • 海外旅行の思い出を語り合う佐藤夫妻

「あの時の記憶を伝えなくては、お迎えが来てもいけないよ」。戦争末期、多くの市民が犠牲になった無差別空襲。寒川町在住の佐藤博さん(91)は東京、横浜、平塚の空襲を目撃した。

 佐藤さんが当時住んでいた御所見村(現在の藤沢市)は、敵機の来襲を早期に発見し、防衛司令部や住民に知らせるための防空監視哨がある、開けた土地にあった。

 1945年3月10日の東京大空襲と7月16日の平塚大空襲は夜間に起こった。「夜中で飛行機や煙は見えなかったけれど、空が赤く染まる光景が目に焼き付いている。あの炎の下にいた人がどんなに大変な思いをしたか、それを思うと今も胸が痛む」と振り返る。

 そして、なによりも印象に残っているのが5月29日の横浜大空襲だったという。「昼間に起こったから一部始終を見ていたんだ」

 その日、小学校に向かう途中だった佐藤さんは空襲警報を受け、自宅に引き返した。鳴り止まないサイレンの中、父、母、兄、妹と共に防空壕に入ると、まもなくして轟音が響き渡った。「『ゴォー』という音につられて思わず外に出た」。自宅付近の丘に駆け上がった佐藤さんが目にしたのはB29爆撃機。「B29はサイパンから富士山を目印にやってきた。東に向きを変えて横浜に向かったのが見えた」。しばらくして、東の空に雨のような白い光が降り注ぐと、次第に空が炎と黒煙に包まれていったという。「何が起こっているかその当時はわからなかったけれど、『ああ、横浜もやられた』と思った」

 終戦を知ったのは担任教諭からの「戦争は終わった。米が食えるぞ」の一言だった。当時は1カ月当たり8日分の米の配給のみ。ひえやあわを食べる生活で、終戦後も食糧難に苦しんだという。

 また、1番上の兄が戦地から帰ってくることはなかった。「兄は小学校教諭をしていた。出征する前夜、両親と話し込む姿をよく覚えている。戦場に行く兄が誇らしい気持ちとともに、すごく心配だった」

 終戦後は大学を卒業後、郵政省に入り59歳まで働いて退職。2人の娘を育て上げ、妻とともに船で世界一周の旅に何度も出かけるなど充実した生活を送ってきた。79歳で胃がんを患い、摘出手術を受けたものの、91歳になった今も体を動かし汗を流す。今、自らの体験を語ることについて「記録に残すことで、少しでも後世に伝えることができたら」と話した。

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