茅ヶ崎・寒川 社会
公開日:2025.08.22
恩賜の菓子を抱いて眠った夜
寒川町在住 石原美枝子さん
空襲が激化した第二次世界大戦末期、国民学校(小学校)に通う3年生から6年生の児童らの多くは親元を離れ、空襲の被害が少ない場所に避難していた。寒川町在住の石原美枝子さん(92)もそうした一人だった。
軍港のある横須賀で生まれ育った石原さんは、5年生だった1944年の夏に学童疎開を経験した。それ以前にも祖母のもとへ縁故疎開をしたことがあるというが「食糧難だったからね。やっぱり居づらくて」。
横須賀駅で見送りの家族と別れ、2つ下の妹とともに「荷物のように詰め込まれて」列車に乗せられた。子どもも大人も皆、涙を流していた。「先生が家族から子どもたちを引きはがして電車に乗せるんだ。そうでもしないと離れられないからね」。こうして厚木市にある妙純寺へと疎開した。
約70人の子どもたちとともに、寺の本堂にぎゅうぎゅうに敷き詰められた布団で眠り、少ないご飯を食べる日々。「親が会いに来てくれるんじゃないかと、寺の外が見渡せる階段に座ってひたすら待ちわびていた」と石原さん。寂しく、つらい疎開生活も「(戦争に)勝つまでは」と、ただ耐えるしかなかったという。
忘れられない夜
その年の秋、石原さんにとって忘れられない出来事が起こる。
その日、寺には天皇陛下から賜った「恩賜の菓子」が、子どもたち一人ひとりに配られた。「クッキーだったかおまんじゅうだったか、もう覚えてはいないのだけれど、ただただ本当にうれしかった」。空腹で今すぐにでも食べたい気持ちと、もったいなくて食べられない気持ちの間で葛藤し、胸に抱きしめて布団に入った石原さん。夜も更けたが「眠れるはずもなかった」という。
すると、一人の男の子が突然ぽつりと歌い出した。「オンシノオカシヲイタダイテーアスニークホウトオモホタニーコンヤノウチニタベチャッターアアーハラガヘッター」。その歌に、すすり泣く声が次々と重なり、やがて大勢の子どもたちが号泣し始めた。「菓子をもらえた喜び、親元を離れ過ごす寂しさ、そして何より空腹。これまで耐えてきたさまざまな感情があふれた瞬間だった」と話す石原さんの目にも涙が浮かぶ。
あれから80年、石原さんは寒川町の倉見で過ごしている。窓から見える相模線の単線を見るたびに、学童疎開で乗り込んだ列車を思い出し、その当時の記憶をたどる。「今は、白いご飯が食べられたり、家族と一緒に過ごしたりするときに、『平和』を強く感じるの」とほほ笑んだ。
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